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2010-09-01[n年前へ]

人生のページは実はわりといつも「どこでもドア」で 

 tomokotaneblog 「夏休み自動延長」 から。

人生のページって、
実はわりといつもどこでもドアで、
願えば、必ずとは言えないけど、
(どこでも)連れてってくれる。

種ともこ

 さて、この記事の「関連お勧め記事」には一体どんな記事が並ぶだろう。

2010-09-03[n年前へ]

非科学的イコールケシカラン式の科学万能 

 森本雅樹 「宇宙経由 野辺山の旅 」のあとがきから。

 なるほど、科学は、そして人智は、昔からの人間の活動で次々に可能性をひろげてきた。「科学は無限、人智は無限」といった人間賛歌であればまだ聞くに値しようが、非科学的イコールケシカラン式の科学万能は、むしろ非科学的でさえあると思う。
 なるほど、事柄をせまい範囲に限れば科学はすべての問題に正しい答えを用意してくれる。でも、科学でわからないことがゴマンと存在することだってだれでも知っている。人間は、そしてあらゆる自然の営みは、いつでも経験や論理の力だけでは解決できない問題をつきつけられ、何らかの形で判断をあたえながらここまでやってきたのだ。その中から科学だって生まれたのだと思う。
 科学万能には反対しているみたいな論陣を張ったが、しかし、・・・せまい範囲に限った場合、科学がすくなくとも最良の判断を与えてくれるのもたしかである。ひとまず考ええるどんな競争にも、最も確実に勝つ方法を提供するのは科学である。

 この一節の後、「このような競争原理にもとづく科学万能は弱い」と続くこの「あとがき」を読むだけでも、この本を手に取ってみる価値があるかもしれません。

 いえ、「かもしれない」でなく、手に取る価値があると、私は思います。

2010-09-05[n年前へ]

「時々、近くをちょっと走るだけ」 

 「もっと速く、もっと遠くへ」から。

 東京都八王子市で奥さんと娘さんの3人暮らし。ふだんはもの静かな内視鏡技術のエンジニアだ。(中略)「会社の同僚にもほとんど自転車のことは話しません。町内会の理事をやっているので休日もそうは乗れない。時々近くをちょっと走るだけです」。
 そのちょっとがすごい。例えば未明に出発して富士五湖から伊豆半島、石廊崎を回って夜10時には帰宅する。1日400キロ。・・・けれど何も自慢しない

2010-09-07[n年前へ]

「科学的でも論理的でもありません」 

 「12星座の恋物語 」から。

 「おはなし」は、科学的でも論理的でもありませんが、そのなかにたくさんの知恵や共感すべきエッセンスを含んでいることが多くあります。

 この一文を読み、江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません 」を連想したので、このクリップは「科学的でも論理的でもありません」という題にしてみました。

2010-09-08[n年前へ]

「島の時間」と「数字を忘れろ」 

 GRAPHICATION(グラフィケーション) 2010 no.170 通巻359号 特集「島へ」から。

 「お仕事は一日何時間ほど続けますか?」
つい、おろかな質問をした。
 老人は丁寧に答えてくれた。「さあ、日が暮れるまでですよ。疲れたら休んで、またやって、なにも義務づけられたもんでもないし、もう疲れたなと思ったら放っておいて」
 (中略)
 たとえば、竹富島で会った老人に、私はたびたび「時間」のことを尋ねた。働くのは何時間か、何時に起きるのかとか。おりかな質問だ。聞きながら「数字を忘れろ」と自分を責めていた。

辰濃和男 「島の時間」

 「グラフィケーション」は、無料で定期購読できるのに最高の内容が詰まったグラフ誌です。もしも、まだ読んだことがない人がいたら、このグラフ誌の「時間」が来る前に、読んでみることを強くお勧めします。

 島を単純に見れば、その外見からとかく孤立し、離れ、隔絶した存在と考えられがちですが、逆に海からの視点で見れば、世界中の港に“つながる”開かれた場所とも言うことができます。人が島に魅せられる理由はさまざまですが、大まかに言えば、豊かな自然と島に流れる独特の時間にあると言っていいでしょう。夏休みには少し遅い特集ですが、人と人、人と自然が間近に向き合う島の魅力について考えてみました。

『島へ』
2010年度のテーマ “つながり”を求めて

 高度に発達したIT、さまざまな技術や大量・高速の輸送手段などによって、人と人、人と社会のつながりが昔に比べより深まり、信頼や絆が強まったと言えるのでしょうか。便利な道具やサービスが仲介することで交流範囲はかつてない広がりを見る一方、人と人の濃密な係わり合いはむしろ希釈化されているかもしれません。昨年の「新しい関係の哲学」に続き、"つながり"をテーマに身近な日常の光と影を追います。

2010-09-11[n年前へ]

「贈り物<贈られたもの」という不等式 

 角田光代・松尾たいこ 「Presents」から。

 贈りものってなんだろう。(中略)私たちが人からもらうものは、ぬいぐるみやアクセサリーばかりでなく、言葉や、ごちそうや、空気や笑顔、そうしたものも含まれているに違いなく、(中略)生まれてから死ぬまでに、私たちは、いったいどのくらいのものを人からもらうんだろう。そんなことを考えながら、毎回文章を書いていました。人はだれでも、贈るより贈られるほうがつねに多いんじゃないかなと思います。

2010-09-12[n年前へ]

"When you look at some aspect of everyday life and ..." 

 "Why brazils always end up on top "You do not need to always have great particle physics accelerators to answer the questions of physics," says Dr Nagel.

"This is a perfect example of one of those situations when you look at some aspect of everyday life and it raises interesting questions which defy our intuition."

2010-09-25[n年前へ]

「あぁ、これだけ損ができる」 

 「明日に-」という言葉だけが書かれたページから始まる、北村薫「朝霧 」の中にこんな言葉があります。

「損をするのが分かっていても、出さなきゃいけない本って多いでしょう。本屋が稼ぐっていうのは、売れない本のため。一億入ったら、”あぁ、これだけ損が出来る”と思うのが、本屋さんなの」

 「これだけ損が出来る」ということが「豊かさ」を作るのだろうか、と思うことがあります。もしかしたら、「損が出来ること」こそが「豊かさ」なのかもしれないとさえ感じることも あります。宵越しの金は持たない江戸っ子なぞは、さぞかし「豊か」に違いない、と考えるのです。

 どんな"損が出来る”のだろう、とふと考えます。何のための損をしたい」のだろうか、と煎じて詰めて考えてみたりします。

2010-09-26[n年前へ]

田村淳の「試行錯誤」 

 「ロンブー淳さんが休日にゆるーくやってるネット番組について本人インタビュー」から。

 「これやっちゃだめなんじゃないか?」「ここまでやったらやり過ぎなんじゃないか?」って自主規制をかける感覚がものすごく嫌で。それとっぱらうにはどうしたらいいんだろうなぁと考えているうちに、“失敗できる場所”があったらいいんじゃないかというところに思い至ったんです。

2010-09-27[n年前へ]

運命を変える「ヘルメットの色」は偶然が決める 

 鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス (13) どうしてニッポンはこんなに便利で息苦しいのか? 」から。

 人間の運命なんて、自分が考えている以上に偶然に左右されるものだと思ったりします。堤さんと現在指名手配されている女性との違いは、かぶったヘルメットの色だけでした。(色の違いがセクトを表すのです)
 何色をかぶるかで、その後の運命が変わったのです。でも、その色を選択した理由は、じつは、誰と出会ってどの色を勧められたか、という違いだけなのです。

 かつて、「メット」という言葉を聞くと「角棒」を連想したものだった。角棒の先には(見落としそうなくらい)小さな旗がついていた。角棒の先になぜ旗がついているかというと、あくまでその「角棒」は単なる「旗」であって決して「武器」ではない、というイイワケのためだった(と思う)。そんな人たちを、頻繁に見かけたような気がする。

 「誰と出会ってどの色を勧められたか」という偶然は、決して運命を決めるすべてではないだろうが、無視できない大きいファクターなのだろうか。