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2010-10-03[n年前へ]

全員が喜ぶ番組なんかないでしょう!? 

 鴻上尚史 「ドン・キホーテのピアス (13) どうしてニッポンはこんなに便利で息苦しいのか? 」の中にある「電波少年」の土屋敏男の言葉から。

 最近のテレビはどうですか?と質問すると、「好きになって欲しい」と思って創っているいる番組より、「嫌われたくない」と思って創っている番組が増えているんじゃないかとおっしゃっていました。
 全員が喜ぶ番組なんかないでしょう、と土屋さんは続けました。

2010-10-04[n年前へ]

ひとつだけでなく、複数のものを知るということ 

 鴻上尚史 「ドン・キホーテのピアス (13) どうしてニッポンはこんなに便利で息苦しいのか? 」の中にある「電波少年」の土屋敏男の言葉から。

 「師匠を2人持つっていうのがいいと思う。一人しか持たないと、師匠のミニにしかならないからね。二人持つと、ミックスされて、自分独自のものが出来上がるから」

 この「師匠」という言葉は、さまざまな言葉に入れ替えることができるような気がします。それはたとえば、「文化」なんていう言葉に入れ替えて良いし、「考え方」とか「やり方」といったものに入れ替えても良いようにも思います。あるいは、「○×系」でも「グループ」でも「価値観」でも、ありとあらゆることを意味する言葉をあてはめてみると、何か新しいものを見ることができて、面白いようにも感じられます。

 ひとつのものしか知らない時、ひとつのものしか見る機会がない時には、体の中で警鐘を鳴らし、複数のものに接するようにすることが大事なのかもしれません。

 さて、下に、「師匠がしていること」を、自分がしようとすると、さて何ができるか、ということを描いてみました。人はそれぞれできることが違いますし、「師匠がしていること」を”ただ”なぞろうとしても、それは”劣化”コピーにしかならないように思います。

 ふと、こんなことを考えます。”劣化”コピーなのか、それとも、意味あるコピーなのかは、その瞬間にはわからないものです。人は完全でないコピーをし続けることで進化し、そして、今の世界があります。それでも、「ひとつだけでなく、複数のものを知る」ことで、どんな意味を持つかということを、少し長い時間軸に沿って眺めることができるのかもしれません。

ひとつだけでなく、複数のものを知るということ






2010-10-05[n年前へ]

「継続は力なり」 

 住岡夜晃「讃嘆の詩 」から。

青年よ強くなれ
牛のごとく、象のごとく、強くなれ
真に強いとは、一道を生きぬくことである
性格の弱さ 悲しむなかれ
性格の強さ 必ずしも誇るに足らず
「念願は人格を決定す 継続は力なり」

2010-10-13[n年前へ]

言葉を尽くしても、確かめられないもの 

 「言葉」にまつわる一節を読み、ふと思い出した、もうひとつの言葉。言葉をいつも尽くしていれば、確かめることができるのだろうか。それとも、確かめられないものがあると知りつつも、言葉を尽くしていくものだろうか。

気持ちなんて伝わらない。
言葉を尽くして説明しなければ、
コミュニケーションは成り立たない。

森博嗣「四季 秋」
どれだけ、言葉を尽くしてみても、
確かめられないものがあるだろう。

小田和正「もっと近くに」
言葉と心の間、それは君しか 分らない。

小田和正 "between the word & the heart "

2010-10-14[n年前へ]

他人のままでいられるギリギリの距離≒6cm!? 

 「ロクセンチ」の命名理由から。

 「男女が向き合ったときに、他人のままでいられるギリギリの距離が推定6センチであると考え、その先はきっともう言葉も音楽も侵入不可能だろうから、そのギリギリまではきっちり侵入しちゃいますぜおくさん!!」という意味と「ロックバンドにしては曲がどれもこれもセンチメンタルすぎる」の頭文字をとって「ロクセンチ」と命名されました。
 「他人のままでいられるギリギリの距離≒6cm」という式には色々な感想がありそうだけれど…下に貼り付けたのは、ロックでセンチなロクセンチの「レイトショーを観にいこう 」。

2010-10-22[n年前へ]

夕暮れに見上げる空 

 何日も何日も暗い雲と雨が続く中、夏川りみの「涙そうそう 」をふと思い出し、本名でもあるらしき「りみ」という名前はどんな祈りや希望を込めた名前なのだろう、とひとしきり考える。

晴れ渡る日も、雨の日も。
一番星に祈る、
それが私のくせになり、
夕暮れに見上げる空、
心いっぱいあなた探す。

夕暮れに見上げる空






2010-10-23[n年前へ]

「知ってる」と「できる」は違う。 

 「左手の親指が…アッ取れた!?」という手品の種明かしをした後に映し出される言葉。

「知ってる」と「できる」は違う。

Mr.マリック
 こういう言葉を見た後に、下の『この記事の「関連お勧め記事」を読む』という部分に自動で表示された記事を読むと、それが機械からのアドバイスであるにしても、少しありがたく思う。

2010-10-24[n年前へ]

押井守の「たまご」 

 押井守の「たまご」

 (少女は“たまご”をかかえている。彼女は、たまごがかえって、鳥になると信じている)
 “たまごは割ってみなければ、なかになにが入っているかわからない”

 私の好きな(たとえば加納朋子の「掌の中の小鳥」のような)「掌の中にあるもの」とは違うテイストですが、この前後にある言葉を書き写しておきます。

「しかし、たまごを割ってみると、なにもない。これにとまどう人も多いと思うんですが」
「たまごは、言葉を変えていえば、夢とか希望だと思う。それは、今ここにはないもので、可能性として存在しているだけである。しかし、夢とか希望を信じているうちは、人は本当の現実には出あっていないのだと思う」

2010-10-25[n年前へ]

すぐスマイルするべきだ。子供じゃないならね 。 

 ホフディラン 「スマイル 」から。

いつでもスマイルしようね。
人間なんかそれほど綺麗じゃないから、
すぐスマイルするべきだ。子供じゃないならね 。

2010-10-26[n年前へ]

「答え」は一体どんなものだろう!? 

 「ひとつの疑問をべつのかたちの疑問に有効に移し替える作業」という言葉は、村上春樹が「小説とは何か」という疑問に対して「神の子どもたちはみな踊る 」の中で出した答えです。

 いくつかの疑問に対して、その答えが一体どういうものなのだろうかと考えていたときに、とりあえず思いついた答えが「次の手がかり(ポインタ)を何らかの形で与えるもの」というものでした。正しい・正しくない・・・そのどちらにたどり着くのかはわからないけれど、とにかく何かの手がかりがあるということが、少なくとも「答え」に関するとりあえずの必要条件なのではないだろうか、と考えたのです。そして、そんなことを考えながら、先の村上春樹の言葉を思い起こしたのでした。

 その逆を考えてみます。つまり、「次の手がかり(ポインタ)」を提示していない言葉を考えてみれると、たとえば、何らかの提案が含まれていない言葉や、あるいは、単なる堂々巡りの言葉といったものがあるように思います。とりあえずであっても、そういったものは何かに対する「答え」ではないような気がするのです。

 ところで、「小説とは何か」という疑問に対する答えと、「答えとは何か」という疑問に対する答えがとても似ているということは、もしかしたら、もしかしたら、小説とは何らかの答え・・・なのかもしれません。

 Aという小説で私なりにあることができたと思った時に、(その結果)Bという課題が生まれたとします。すると、次にBの課題を入れ込んだ小説を書くというふうに、「読み手に向けて」よりは、「自分の中にある課題を片付けていく」というのが近いですね。

角田光代@児玉清の「あの作家に会いたい」

2010-10-31[n年前へ]

「おバカなベクトル」と「ともだち」 

 先日、思いもしないところで、小学生の頃のともだちに再会することができた。電気屋に行くと、ようやく「マイコン」というものに出会うことができるようになった、そんな時代の遊びともだちだ。
 イケテナイわたしたちは、いつも、小学校の正門を過ぎてから、どれだけ地面に触らずにどれだけ遠くまで行くことができるか、とか、…何だかクダラナイことに時間を費やしていたような気がする。

 …「ある種のナイーブさ」と言い換えるならば、それは必要なものだと思う(Larry Wallの言うhubrisともはちょっと違うとは思うけど)。 2番目のエントリで挙げられてる「バカさ」「若気の至り」がたぶんそれで、「ものわかりの良さ」の反対側を向いたベクトル。


ナイーブさ
 ちょうどその頃、四半世紀振りの「中学三年生の同窓会」という案内が来たり、週刊女性のページに中学から高校・大学にかけてよく遊んでいたバンド仲間が出ていて、何だか時間の流れというものについて考えさせられたのだった。
 以前書いた「その場その場で面白そうな方向にふらふら進んだ方が良いタイプ」の人の場合は、一本道を極めるよりも、「いい歳をして」とか言われながらも次々と新しいことに手を出す方が、楽しい人生になるかもしれない (たとえ偉大な成果を残せなくとも)。それがはからずも、この種のナイーブさを失わない秘訣であるように思う。


ナイーブさ
 ギターを弾いていた人は、今では石井スポーツの登山用品専門店店長となって活躍しているようだ。夜行列車に乗って、男二人がペアルックで!!スキーに行っていた頃が幻のようだ。
 そして、テレビ局のスタジオで再会した小学校の頃によく遊んでいたともだちは、なにやら技術系の専門家になっているようだ。どちらも、何だかとても誇らしく人に話したくなる話だ。

 不思議なのは、この「誇らしく人に話したくなる」という部分だ。何だか奇妙なことに、その人たちの活躍を心から素直に宣伝したくなるような気持ち、自慢したくなるような気持ちがそこにはある。そんな人たちが周り数百メートルにいたことを自慢したくなる気持ちもたぶんあるのだろうと思うけれど、不思議なことに、「他」慢したくなる気持ちもあるような気がする。それが不思議でたまらない。もしかしたら、年をとりボケたせいで、自分のことと他人(ひと)の違いがわからなくなってしまっているのだろうか。

まっさらさらのアスファルト 描いた座標軸は、
ゆらゆら揺れる 胸のベクトル。

Pumps Race Song@「ベクトルの彼方で待ってて」
 あの頃、どんなベクトルを地面に落書きしていたのだろうか。…たぶん、それは「ゆらゆら揺れる 胸のベクトル」ではない、はずだ。