■合掌
キレイはキタナイ、キタナイはキレイ
Bangkokの街の中を歩いている時に撮影したものである。ここでは、祈りを捧げている人をいたる所で見かける。
元来、ワイ(合掌)は、神聖な右手と不浄の左手を合わせることにより、人間の真の姿を表現する試みであったという。それはどんなものにも複数の側面が存在しているということだ。どんな人も不浄でもあれば神聖でもある。そして、どんなことでもそれは同じだ。
全てのものは、色々な側面が存在する。神聖と不浄であってもいいし、他の言い方でも良い。例えば、文化と経済、西洋と東洋、販売と生産であってもいいし、伝統と革新、研究と開発、喜劇と悲劇、本人と他人であっても良いだろう。そして、論理と感情もそうだ。
物事は色々な側面が存在しているのだから、一つの立場を振りかざす論理というものはたやすく崩壊する。感情で動く人に論理を振りかざしても、喝破されるのがオチだろう。「みんなはこう思う」というような言葉は「私はそう思わない」と言う人の前ではなんの意味も持たない。
物事を続けていく中で、「複数の側面があるからこそ続けられる」と思うことも多い。どんなことであっても、一つの立場からだけ続けていくのとても苦しい。しかし、複数の側面があれば何とかやっていくことができる。鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」の言葉を借りれば-全体は一つではなく、二つの側面があるからなんとか生きていける -ということだ。
色々な側面があるからこそ、動機が生まれ、原動力となり、継続することができるのだと思う。ワイ(合掌)する人を見ると、ふとそう思うのである。