■過去を見る右目と、未来を見る左目と、
Left Eye
下の写真は2週間程前に撮ったものだ。同じような二枚の写真が横に並んでいるから、容易にわかると思うが、これもある種の立体写真だ。いつもと同じように平行法で眺めてみれば、ちょっと不思議な感じの立体写真に見えると思う。
これは前回の立体画像とは違って、「異なる場所から撮った二枚の画像」を眺めているわけではない。同じ場所から連写した二枚の写真を、ただ並べてみただけのものである。つまり、「異なる時間から撮った二枚の写真」を左右の目で眺めているのである。つまり、この二枚の写真は右・左の順で撮られているので、この写真を眺めるとき、私たちの右目(righteye)は過去を、そして左目(left eye)は未来を見ていることになる。
そして、街の景色は変わらないけれど、道を走る車は当然のごとく動いている。だから、車の位置は離れた時間を見ている左右の目には異なって写る。すると、私達は不思議な立体感を感じることになる。時間を立体的に左右の目で眺めることができるのである。
これまで眺めてきた立体写真は、「空間的に異なる視点から眺めた景色」を左右の目で眺めていた。そんな立体写真では、離れた場所から眺めてみても変わらずに見えるものは背景となって埋没し、離れた場所から眺めたときに姿を変えるものは背景から浮かび上がって見えた。
今回の二枚の写真は、空間的には同じ場所だけど、時間的には違う場所から眺めているのだから、やはり「異なる視点から撮った写真」に他ならない。だから、この写真を眺めるときに私達は時間を立体的に眺めていることになる。時間が経っても変わらなかったものは、背景となって埋没し、「時間と共に変わっていくもの」が背景から浮かび上がり、あるいは、背景のさらに背後に引っ込んでしまう。そんな景色を眺めるとき、私達は時が流れていくさまを両目で見ることになる。私達の過去を見る右目と、そして未来を見る左目と、私達は同じはずの場所に立っているにも関わらず、その両目から見る景色の違いに驚くのだ。
そんなことは写真だけでなくて、どんなものでも同じことだろう。例えば、言葉だってそうだ。同じようなことを書いているだけなのに、時間が流れているせいなのか、あるいは他の何かのせいなのか、言葉から受ける印象は刻々と変わっていく。同じ言葉を書いていても、読んでいても、時間が経つと共にその言葉の姿は何故か変わる。同じはずの言葉が、姿を変え、意味を変え、違う印象を与える。
上の写真の中から「変わっていったもの」が背景から浮かび上がり、私達の目の前に飛び出してきたように、言葉の場合も同じ言葉だったはずの言葉が何故か背景から浮かび上がって、私達に迫ってくることになるのかもしれない。何故だかわからないけれど、前回の最後
のこされたものは、のこされた瞳(left eye)で、のこされた夢を見続ける義務がある、… いや自由があるを読み直しながら、私はそんなことを考えてみたりした。