hirax.net::inside out

2009-01-07[n年前へ]

Mathematica 7で「ミニチュア模型風写真」

 少し高いところからアオリを付けて写真を撮り、「ミニチュア模型風にした写真」に惹かれる人は多いようだ。撮影手法自体は昔からあるが、広告写真などでよく使われるようになったことや、画像加工アプリケーションを使って特殊なカメラを使わずともそういう写真画像を作ることが簡単にできるようになったため、今も流行っている。

 数式処理プログラムのMathematica 7が出荷され始めた。Mathematica 7のデモンストレーション・アプリケーションの中にも、Digital Tilt-Shift Photographyという「ミニチュア模型風写真」アプリがある。

2009-01-06[n年前へ]

「モノを作る」「モノを必要な場所に運ぶ」

 「なるほど。資本主義とは確かにそういうものなのだな」と思わされたのは、岩井克人の「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」という言葉だった。

 井上ひさしが、闇米とアメリカ煙草の仲買で儲けていた母親を批難したところ、こう言い返されたという。

 紀伊国屋文左衛門をみてごらん、三井や三菱をみてごらん。みんな、モノやカネを動かして儲けた連中じゃないか。モノをつくるより、モノを動かす方が儲かるという世の中の仕組みに文句を言いなさい。
 この言葉も、「なるほど、確かにそうだったのかもしれない」と感じさせられる言葉だ。地方の農家も闇米で潤ったかもしれないが、それ以上に煙草を欲しがる田舎の名士と、米を必要とする都会の人々の間で流通業を行う方が大きな利益を得ることができたのかもしれない。

 こういった資本主義を表現した「ひとこと」を集めて、読んでみたいと思う。そして、そこから現れてくるものを眺めてみたい、とも思う。

2009-01-05[n年前へ]

「hirax.netのRSS」と「Apple Safariを使ってみる」

 現在、hirax.net のテキスト類は、"inside out" "Tech-logs""Logos""Dekirukana?"という具合で、いくつかに分類されていますが、それらのコンテンツ(Contents)に関する更新内容は, すべてRSS(http://www.hirax.net/rss)から取得することができます。たとえば、Apple Safariで RSS を表示してみたのが下の動画です。タイトルだけ眺めたり、冒頭の文辺りを短めに眺めたり、あるいは全文を読んだり・・・といったことをしてみた動画です。

 Apple SafariでRSSを直接眺める場合には、動画やスクリプトなどによる表示内容を見ることができなかったり、あるいは、画像のレイアウトなどが汚くなってしまったりもするわけです。それでも「流し見」する程度には使えるのだろうかと思ったりもしますし、動画や画像のレイアウトが自然でなければ、「流し見」はできないかもしれない、と感じたりもします。

 時折、RSSと同じように、"Logos""Tech-logs"はなくし、"inside out"で全て表示してしまおうかと考えます。けれど、そう考えるたび、「何かやってみる」ものと「ブックマーク・メモ」的なものが一緒になってしまうのも良くないような気がして、現状のままにしてしまうのです。道具としての書きやすさ、道具としての読みやすさを考えると、どのようにしたらいいのだろうか、といつも悩みます。


2009-01-04[n年前へ]

釣り用(偏光)サングラスを美術館に持って行く!?

 光が物体を照らすとき、その表面(空気と物体の間)で反射する光は(反射面に平行な偏光方向である)S偏光の割合がとても高い。たとえば、太陽の光が水面を斜めに照らす時、水面で反射する光のほとんどはS偏光である。だから、日に照らされて輝く海面を目の前にした時でも、偏光サングラスをかければ、海の中を泳ぎ回る魚や海草をとても綺麗に見ることができる。

 下の動画は紙面上に見える反射光を、偏光フィルタを通して眺めると、偏光フィルタの方向によっては「反射光が消えて画像が色鮮やかに見える」さまを確認してみたものだ。



 たまに、ガラスに覆われた名画を目の前にしたとき、「あぁ、偏光サングラスを持ってくれば良かった」と思うことがある。絵画を覆うガラス面に写り込んだ照明を邪魔に感じるとき、邪魔な反射光を偏光フィルタで取り除きたくなる。しかし、そう思いつつも、いつもサングラスを持参することを忘れてしまう。

 もしも、釣り用(偏光)サングラスをかけて美術館に行って、ガラスに包まれた名画を見たらどんな風に見えるだろうか。ガラス表面で反射する邪魔な光を消すことができるだろうか。あるいは、それとともに画家のマチエールも見えなくなってしまうのだろうか。

2009-01-03[n年前へ]

色フィルターを通して色画像を見てみる

 最近、赤外線でラクガキした画や、印刷された画集を見てました。波長が長く、目に見えない光で世界を眺めてみました。そこで、今日は、目に見える可視光の範囲、「赤い光」で印刷物を眺めたらどう見えるのかを試してみました。

 赤い光だけで眺めてみると、白い部分と赤い部分を区別することができない・・・ということがわかります。それは、当たり前といえば当たり前の現象です。けれど、「赤い色フィルター」を通した途端に赤い部分が消滅してしまうさまを見ていると、何だか不思議な手品を見ているような気分になるものです。


2009-01-02[n年前へ]

「箱根駅伝」と「ダイナミックベースド制御」

 正月の箱根駅伝で選手たちが下り坂を駆け下りていく姿を見ていると、「受動歩行」を連想します。人体(や動物)を模した機構を坂道に置くと、坂道の傾斜や、その機構の各部分の重さや関節のバランスで、自然に歩いたり、走り出したりします。

 基本的には「骨」と「関節」だけの機構を持つ物体ですから、何か力を使うことで足や体を動かし、歩いたり・走ったりするわけではありません。ただ、体のバランスで、体の動きが自然にそんな風に収斂していくわけです。

 力を使うのは、その定常的にな「歩き・走り」の状態から何か変化をさせたいとき、たとえば速度を上げたいとき屋下げたいとき、あるいはバランスを崩す何かの外乱があったときにだけ、ということになります。

 東京の日本橋から箱根の芦ノ湖まで、そして芦ノ湖から日本橋まで走る駅伝の選手たちは、どんな風に自分の体を動かしているのでしょう。選手たちの人体機構のバランスはどのようになっていて、その人体機構がどんな自然な動きを実現して、そして、その自然な動きからさらなる速さを求めて選手たちはいかにして力を絞り出し使っているのだろうか、と想像を巡らせくなります。選手たちが走るさまに目を奪われます。


2009-01-01[n年前へ]

「行く年」と「動的言語」と「来る年」と

 12月31日から1月1日に日付が変わる頃、脈絡もなく、「人生」は「動的に色々なものが定まっていくプログラム」と似ているのかもしれない、とふと考えました。

 そのどちらも、実行前に何かが定まってしまうのではなく、その時その瞬間にさまざまなことが決まっていくように思います。そんな一行一行が積み重なり動いていくさまを、なぜか連想したのです。

 Rubyスクリプトを実行できる形に変換することができるRubyScript2Exeというものがあります。このRubyスクリプトは、他の(実行形式に変えたい)Rubyスクリプトを一行一行実行しながら逐次必要ファイル情報などを集めていき、さらにRubyインタプリタも内包させた上で、最終的に実行形式に変換する、というものです。

 こういった動作でアプリケーションが作られるということは、実行形式に変換する際のプログラムの動き次第で、最終的に作成される実行形式ファイルが違ったものになる、ということです。たとえば、こんなRubyスクリプトを作ってみます。

i=2008+rand(2)
if i>2008
  puts 'in case of '+i.to_s
  sleep 3
  require 'win32GuiTest'
  gui=Win32GuiTest.new
  # (中略)
else
  puts 'in case of '+i.to_s
  sleep 3
end
 RubyScript2Exeは、Rubyスクリプトを実行しながら、必要なものを逐次集めていきますから、実行形式作成時に1行目のiが2009になったとしたら、win32GuiTest.rb ライブラリが読み込まれることになります。しかし、もしも、iに2008なったとしたらwin32GuiTest.rbは読み込まれません。

 つまり、実行形式を作成する際に、"i=2008+rand(2)"でiがどうのような値になったかで、win32GuiTest.rb ライブラリの読み込みの有無が異なる2種類の実行形式ファイルができあがるのです。試しに、実行形式作成時のiの値が異なっていたことによる、(RubyScript2Exe.rbで作成した)異なる2種類の実行形式ファイル(2008.exe, 2009.exe)を置いてみました。

 さて、実行形式ファイル作成時に、"i=2008+rand(2)"が2008になり、win32GuiTest.rb ライブラリが読み込まれていない実行形式ファイルが2008.exeです。この実行形式ファイル2008.exeを(たとえば実際にあなたが)実行するときには、"i=2008+rand(2)"は2008になるかもしれませんが、2009になることだって1/2の確率であるわけです。

 もしも、2008.exeを実行する時にiが2009になったとしたら、必要なライブラリが読み込まれていないので、未定義のクラスや関数が登場することになり例外が発生することになります。

 さて、実行形式ファイル作成時に"i=2008+rand(2)"が2009であった2009.exeの場合には、実行時にiが2008になっても2009でも動作します。2009.exeは、"i=2008+rand(2)"が2009になった場合には「ペイント」プログラムを立ち上げて、「初日の出もどき」を描きます。"i=2008+rand(2)"が2008だったら特に何もしません。

 「行く年」や「来る年」を見て、その「行く年」「来る年」の中を歩いていくたくさんの人たちをみて、なぜか「動的言語」を連想しました。これが、2009年の一番最初に作ったプログラムです。

OSX Development






2008-12-31[n年前へ]

赤外線で見る「マチスの画集」

 「プリンタで偽造したナンバープレート」と「速度取り締まり機の撮影波長」 実験編 Part.1 で書いたように、普通の印刷やプリンターなどで使われる(黒以外の)カラーインクは赤外線を吸収しないものが多い。私たちの目には鮮やかな色を見せるカラーインクでも、赤外線の目から見ると単なる透明のインクでしかなかったりする。通常の四色印刷で使われるインクのカラーインクは、赤外線にとっては全然「カラー」ではないのだ。

 美術書の頁をめくりながら、マチスの画を眺めている時に「この頁を、このマチスの画を赤外線で眺めたらどんな風に見えるだろう」と、ふと思った。そこで、可視光をカットし赤外線だけでマチスの画を眺めてみた。すると、やはり、肌色も鮮やかな赤も緑も消えて、色のない黒い部分だけの画になった。

 実際のマチスの画を赤外線で眺めてみても、きっと、こんな風には見えないだろう。一体、どんな風に見えるだろうか。自分の目とは違う目で、色んなものを眺めてみたいとよく思う。

 絵や本を読むと、そんな思いが少しかなうのがうれしい。

マチス赤外線でマチス






2008-12-30[n年前へ]

「電気コタツ」から「人間行動」まで「フィードバック」してみよう

 寒くなってくると、「モ-レツ科学教室」の「フィードバックしてみよう」を思い出す。越前屋俵太とトンチ博士が電気コタツの中に潜り込み、コタツの中をドライヤーでさらにアッチッチにすると、サーモスタットでコタツのヒーターが止まるようすから「ネガティブ・フィードバック」を説明する。つまり、(目標とする安定状態からの)差分を消す方向に働くフィードバック制御を説明する。

 そして、次に、2人でボールを投げ合っているうちにヒートアップし、力一杯ボールを投げつけ合うさまから、「ポジティブ・フィードバック」を説明していく。もちろん、いつも屋外授業がモットーの「モ-レツ科学教室」だから、越前屋俵太は京都の町中の公園に行き、歩く人たちにボールを投げつけ「ネガティブ・フィードバック」を体感する。

 ビデオを見ているだけで、「電気コタツの動作」から「人間の行動」まで、「フィードバック」を体感したような気持ちに私までなってくる。

 一般的に、ほどよいネガティブ・フィードバックは安定な状態を作り出し、ポジティブ・フィードバックは大きな変動を生み出す。道端でする井戸端会議、ネット上のさまざまなシステム、世界全体を巻き込む経済動向といった、多種多様なものたちに働いている「フィードバック・システム」を眺め、その「設計思想」を考えてみたくなる。

2008-12-29[n年前へ]

現在望み得る最上かつ最良の○×上達法

 文章上達法のコツを一番的確に書いた文章はは、井上ひさし 「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法」である。・・・と、名文を書く人たちがみな口を揃え自著に書く。

 井上ひさしの「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法(死ぬのがこわくなくなる薬―エッセイ集)」は、たった3ページほどの文章なのに、密度が実に高い。何しろ、「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法」について、いきなり一行で答えを冒頭に書いてしまう。

「丸谷才一の『文章読本』を読め」
 そして、「文章を手当たり次第読み、そして、それを真似する作業をせよ」という内容が書かれ、最後の一文はこう締めくくられる。
 つまり文章上達法とはいかに本を読むかに極まるのである。

 どんな分野でも「技術」は欠かせない・・・だろうと思う。それが、体を使うことであっても、頭を使うことであっても、あるいは多くのことがそうであるように、体も頭も使うことであったとしても、「技術」を必要としないものはないはずだ。・・・根拠無しにそう思う。

 そういった技術に関して、「現在望み得る最上かつ最良の○×上達法」というものを考えるとき、井上ひさしの「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法」は、意外に適用できることが多いのではないのだろうか、と思う。だから、というわけではないが、この文章を一度読んでみて損はないと思う。もちろん、丸谷才一の『文章読本』も一緒に「あわせて読みたい(読まなければならない)」ということになるのだが、それは「(名文を読む)楽しみが増える」ということであるから、これもまた得であっても決して損ではないのである。