2009-11-15[n年前へ]
■樹の下のテントに暮らす
春の終わりに京都大学に行き、夕方過ぎの時計台の下で、カフェの窓際の席に座りワインを飲みつつ食事をした。少し不思議な繋がりを持ち合う3人の人と会い、そして、数時間多岐にわたる話をした後に別れた。たぶん、もう会う機会も時間もないのだろうな…とわかる、そんな不思議で珍しい集まりだった。ある先生がこれまでの研究生活を振り返り、自分が教えた学生のうちある3人を呼び寄せた、というものだった。一人は、理学部を経て経済学部へ転身した人で、一人はカメラマンを経てベンチャー企業の社長へ転身した人で、もう一人は、中途半端を画に描いたようなやつである。
その時、食事を共にした人たちに対して失礼にあたるくらい、私は窓の外を何度も何度も眺めていた。それは、夕暮れに映える時計台前の樹がとても綺麗だったことと、その夕日に照らされた木の下にテントが張られ・(多分)立て看板が存在感を主張していたからだ。その時は、「あぁ、懐かしい景色・文化だなぁ」とただ感じながら、眺めていたような気がする。あまりに綺麗で、そして懐かしくて、夕暮れの木の下にカメラ向け、シャッターを押したようにも思う。
水月昭道「アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す (中公新書ラクレ) 」を読んでいて、それが「首切り職員村」「くびくびアイランド」「くびくびカフェ」というものだったと知った。確かに、東大路通り沿いにも、そんな立て看があったような気もする。
今は、あのテントはどう姿を変えているのだろうか。一度、あの「竜宮城」(に思える吉田寮)に住んだことのある人たちが過ごしているというあの小屋は、今はどうなっているのだろう。
2010-06-09[n年前へ]
■働かない人も一定人数いる世界
熊野寮が鉄筋コンクリートの建物なら、吉田寮は朽ちた木造の建物で、奥に中核派が占拠するのが熊野寮なら、多分ふつうの学生が占拠していたのが吉田寮で、熊野寮で余った夕方の寮食があれば、(何食余りがあるという寮内放送と同時に)それをサンダル履いてアサりに行くのが吉田寮生という感じだったろうか。
「京都大学新聞社/Kyoto University Press » エリート×起業家×ニート 新入生キャンペーン2010講演会録(2010.05.16)」
僕が住んでいたのは熊野寮で、基本的にここでだらだらしていました。熊野寮はほんとに、まあ吉田寮とかもありますけど、本当にもうボロくて汚くて廃墟のようで、いるとどんどんやる気が失われていくという感じなので、あんまり住むことはオススメしませんけど、見に行ってみることはお勧めします。廃墟見学的な、ちょっと時間が止まっているようなすてきな建物を見学するという意味で、行ったら面白いと思います。そこは竜宮城のような場所で、竜宮城はキャンパス内にあるけれど、教室に行くわけじゃないから、別にそこが網走でも・太陽が一年に一回しか差し込まない極地であっても、構わなかったのかもしれない。
働かない人も一定人数世界にはいるし、そういうものが世界だと思うし、それでバランスが取れているんじゃないかな、という世界観があるんですね。みんな頑張ってちゃんと働かないといけない社会というのはすごく生きづらい気がするし、逆に働くのだるいなって人が100%でも、それはそれで社会として不安に思います。
高校生の頃、「自由」という言葉を知っていたようなつもりになっていた。もっと、「自由」という言葉を謳歌した”つもり”になったのが、今はもうない吉田西寮という場所でだった。
2010-11-26[n年前へ]
■「ヘタパン(パンの耳”だけ”)」の語源を探ろう!?
コンビニなどに行くと、6枚切りとか8枚切りといった食パンを売っています。ものによっては、お店にはカットされていない状態のパンが届けられて、それをパンカッターを使いパンをスライスして袋詰めする、という具合になっています。コンビニのカウンターの奥を覗くと、その作業をする中で発生したパンの両端の部分がビニール袋に入れられ、テーブルにぶら下げられていたりします。
そのパンの両端の部分、いわゆる「パンの耳」だけの部分にはちゃんと名前がついています。といっても、きっと地方によって違うとは思いますが、京都辺りでは、それをヘタパンと呼んでいました。
京都では、全面が耳のパンをヘタパンと呼んでいました。貧乏人の強い味方でした。ああ、懐かしい。多分、京都市左京区近衛町辺りで「ヘタパン主義者同盟」が活動していた頃、ヘタパンがビッシリ詰められたビニール袋をタダでくれる時もあれば、一袋30円くらいだったこともあるように思います。
1990年ごろの(京都大学の学生寮である)吉田寮の寮祭では、「ヘタパン主義者同盟」という謎のサークルが、ヘタパンで作ったフレンチ・トーストなどを売っていました。ヘタパンにあるまじき贅沢な味わいでした。
「耳なし食パン、英国で開発される」
・・・といってもヘタパンに価格付けがあるわけではないような気もしますから、これは大体の目安に過ぎません。
ところで、そんな美味しく安い「ヘタパン」という名前、これはどういう意味で、一体、どんな語源なのでしょう? 1983年頃の大阪で行われた調査でも、「ヘタパン」という言葉は一般的になっていたようですが、その由来をあまりかんがえたことはなかったような気がします。
スーパーマーケットで、安売りの「茄子」の袋を手に取って、その調理方法を考えているとき、思わず「イウレカ(わかったぞ)!」と叫び・(風呂から)裸で外に走り出したくなりました。「ヘタパン」の「ヘタ」は、「茄子のへた」に違いなかったのです。それは、「はしっこ」とか「へり」を意味する「辺(へた)」を語源にしていたに違いない、とようやく気づいたのです。
ヘタパンはパンの端っこだったからこそ、それはまさに「辺(へた)パン」と名付けられたに違いない、というわけです。ハタパンの「ヘタ」は、実は純日本語だったのか!と思い至り、イウレカ!と叫びたくなったのです。
この「辺(へた)パン」という名前は、いつ生まれたのでしょう?どんな時代に、どんな人たちが、パンの耳をヘタパンと名付けたのでしょうか。そして、そのヘタパン愛好家たちは、どんな風にヘタパンを食べ続けてきたのでしょうか。
2011-10-01[n年前へ]
■現存日本最古の学生寮”京大吉田寮”で築100周年を"前祝い"する「やったね!吉田寮ほぼ百周年祭」開催
現存日本最古の学生寮とされる京都大吉田寮(京都市左京区)で、2013年の築100周年を前祝いする「やったね!吉田寮ほぼ百周年祭」が開かれている。寮闘争の歴史をたどる企画展や創作劇上演などさまざまな企画で、寮に息づく学生文化を伝える。2日まで。
2019-04-30[n年前へ]
■「平成」の終わり、今日も前を向いて未来へと進む。
GW進行の3週間前、ソフトウェアデザイン2019年6月号向けに4ページ記事を書いた。校正時、タイトル冒頭に「秒速 340 メートル、」を付け忘れてしまったことに、「平成」最後の今日4月30日に気づいた。令和が始まる最初の月、5月に発売される該当記事の内容は、秒速30万キロメートルで進む光と、秒速340メートルで進む何か…にまつわる可視化記事だ。
「平成」が始まったのは、京都の吉田寮あたりをウロウロしていた頃だった気がする。そんな元号が今日終わる。時間は秒速1秒で進み、その進行方向を人は未来と呼ぶ。そして、過去を後ろにいつも振り返りつつ、今日も前を向いて未来へと進む。