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2009-02-01[n年前へ]

Objective-CとCocoaフレームワーク・・・勉強中  share on Tumblr 

 「自作アプリをApp Storeで世界に向けて販売できる!! iPhone SDKプログラミング大全 (MacPeople Books)」を読み、iPhoneプログラミングの勉強中です。そんな中、Objective-Cという言語をもっと「高尚な言葉を使わないで」説明した本を読みたいと感じました。それは、「ぶっちゃけた解説」を読みたい、という感じに似ています。

 たぶん、その思想を理解できれば思想通りの表現を素直に読み進めることができそうなのでしょうが、プログラミング素人からすると、何だか今ひとつ言葉が過剰に思えてモヤモヤ感が残るのです。

 たとえば、id型のオブジェクトと言われても、・・・それはもしかしてただの(void*)?と思ってしまいます。そして、何だか過剰に難しい言葉で解説されたC言語に思えてきてしまったりするのです。また、Cocoaフレームワークも、高機能なのはわかる・・・った気になれても、書かなければいけないイベントハンドラーが多いようにも感じてしまうのです。

 せめて、必須のメソッドくらい、少なくともメソッドのひな形くらいは、自動でコード生成してくれないのだろうか、と溜息をつきたくなります。OSXプログラミングで楽しめるようになるためには、まだまだ、まだまだ覚えなければならないことが多そうです。

2009-02-02[n年前へ]

不況時代の「PCの冷却部品の原価の変化」  share on Tumblr 

 おそらく、これから長い間不況は続く。そういった時代背景の中では、エンジニアと名乗る人であれば、当然、コストエンジニアリングを意識して材料費の動向に気をつけているに違いない。しかし、プロとは言えなくとも、テクノロジー好きな技術オタクだって、少しはそんなことを意識することがある。

 それはたとえば、こんな瞬間だ。PCを自宅サーバ用や実作業用クライアント用として組み立てようとする。そんな時には、部品選びをする。当然、冷却部品を選ぶ。その時どんな部品を選ぶかは、その時の経済状態を意識しながら・・・ということになる。

 もちろん、逆のシチュエーション、古いサーバー(もしくはクライアント用)マシンを捨てようとする時に、冷却部品に豪勢に「銅=Copper」が使われているのを見る。・・・そして、「この同は今は一体いくらだろう?」「一体、この冷却部品を単なる金属として売ったならばいくらになるのだろうか?」などと考える、こともあるに違いない。

 ここ数日は、銅は300円/kgくらいで推移している。1~2年くらい前のプチバブルの時代には、1000円/kgほどであったが、今はそれ以前と同じ程度の価格水準(300円/kgほど)に戻っている。



 道具箱をあさっていると、古いCPUファンを見つけた。銅で作られた、赤銅色に輝き、手に持ちつとズッシリ重いその(CPUファンの)冷却フィン部分の重さだけを(体重計で)量ってみると、ちょうど1kgである。つまり、材料費として300円ナリという計算になる。少し前の、高価格ノートや高価格PCなどでは、銅などが豪勢に使われている。

 ゴミとしてPCを捨てるときには、少しバラして貴金属をだけ集めてみたりするのも、そして、kgあたり単価を眺めてみたりするのも、技術オタクのエルドラド探しみたいで面白いかもしれない。

Copper冷却フィン冷却フィン






2009-02-03[n年前へ]

リニアモーターカーの親が書いた「10センチの思考法」  share on Tumblr 

 「リニアモーターカーの生みの親」と称される京谷好泰の「10センチの思考法―ワクから飛び出せ!考え方を変えれば未来も変わる 」を読んだ。すでに熟成したような技術分野でなく、新しい技術分野で何か新しいものを生み出そうとする時には、その新しいものに挑む中に溢れ満ちてくる困難がある。そんな困難や問題を、この本を読めば解決する勇気を手に入れることができそうな気がする。

 いつの間に日本人全員が「行き止まりの思考」に陥りやすい体質になったのだろう。 (前書き)
 と始まる本書は、新しいことを生み出していくときに抱える問題を解決するための手助けになるだけではない。「新しいことを生み出していく」というのは、結局私たちの人生における作業そのものだから、(特に私たち日本人の)人生における問題を解決することの役に立つような気がする。

 ・・・自分独自の思考法がなければ、ほかより先へ進むことができなくなってしまう。誰でもない自分らしさがなければ、この日本のなかで生きていくことすらできなくなる時代がすでに訪れているのだ。
 行き詰まりの思考のままでは、人生までが行き詰まってしまう。(p.22)
 愛国心と忠誠心は、一致するものではない。愛国心は国を誇りに思い、国を思って行動することである。ところが、忠誠心は二心を持たず、国ため働くことが求められる。間違ったことでもいいなりになる危険性をはらんでいる。 (p.51)
 また、上の愛「国」心という部分は、さまざまな語句に言い換えることができる。そして、その入れ替えた語句の場合でも、ほとんど多くの場合に上の文章は成り立つ。

 最後に3つの文章を抜き出してみた。この3つのアドバイス、特に「1番目を経た2番目」と「3番目」の2つは、とても役に立つように思う。

「(学生が)我々がマンガを読むことについて、どうお考えですか?」
「どうせなら徹底的に読んで欲しい。できれば、自分の言いたいことをマンガで描けるくらいになってみなさい。そこまでできれば、多分おもしろいことになるよ」 (p.104)
 図示や絵の大きな効用。それは、自分の頭の中にあるビジョンがもう一段階クリアになり、自分の意志がはっきりしてくることだ。論理的に整合性を欠く部分が自分で分かり、修正することが可能になる。 (p.106)
 断言しよう。能力、才能、素質、これらは「やりたい」という欲求からしか生まれない。やりたいからやると楽しいし、楽しいから苦労を苦労と思わない。 (p.143)

2009-02-04[n年前へ]

SXGA+/SSD化されたスペシャルThinkpad X61s  share on Tumblr 

X61sxga+_08 X61sxga+_08Thinkpad X61sの液晶画面をSXGA+(1400x1050)化し、ハードディスクをSSDに載せ替えて、メモリはもちろん4GB積み、綺麗でないデザイン部は全て美しいフォルムに載せ替えたスペシャル改造の記事を読んだ。これは欲しい。できれば、このスペシャルなThinkpad X61sにMac OSXを載せて動かして使ってみたい。

 改造作業は実に大変そうで、素人にはできそうにない。しかし、改造中のようすや完成品の写真を見ると、とにかく素晴らしいの一言につきる。


X61s






2009-02-05[n年前へ]

教科書に載っている「理想のインク」ってそれホント!?  share on Tumblr 

 (この記事は現在作成中です)

2009-02-06[n年前へ]

電動 A-bike が欲しい。…ニセモノだけど。  share on Tumblr 

 A-bike Plus は、マイコン「シンクレア ZX81」の開発者シンクレア卿が作り上げた直径6インチ(15cm)の極小径タイヤの自転車だ。10秒もあれば折り畳むことができて、67cm×16cm×30cmの本当にコンパクトなサイズになる。重さは5.7kgだ。そのデザインは、本当に美しい。下に貼り付けた動画(音が出ます)を見れば、そのかっこよさに見とれる人も多いと思う。




 もちろん、そのニセモノ(たとえばA-SCOOTER8インチタイヤ版 )が大量に作られ、ホンモノは見たことはない割に、バッタもん屋にはニセモノが格安で溢れ・売られていたのを見た覚えがある。

 今日、ふと下の写真のような電動 A-bike(ニセ)を見つけた。そのギミックさと、奇妙な不似合い感が最高で、少し欲しくなってしまった。

 ちなみに、スペックはこんな具合だ。このスペックだけ見れば、実に悪くない。しかも、値段は調査中だけれども、多分そんなに高くない。残るのは品質問題だけである。…もちろん、それがボトルネックになるのだが、やはりこのギミックてんこ盛り自転車は欲しくなってしまう。

  • 車輪直径:8インチ
  • 本体重量:12.5 kg
  • 積載重量:80kg
  • 最高速度: 25km
  • 航続距離: 20km
  • バッテリー: 24V×10Ah (リチウムバッテリー)
  • パワー: 250W
  • 電源:110V-240V

電動 A-bike






2009-02-07[n年前へ]

阿修羅像と向田邦子  share on Tumblr 

 3月31日(火)〜6月7日(日)までの間、上野公園にある東京国立博物館 平成館で「国宝 阿修羅展」が開催される。どんな他の絵画展よりも、長い時間をかけて見てみたいと思っている。彫刻の技巧というものについて、私は全くわからない。だから、そこにあるものをただただ眺めてこようと思う。きっと眺める時間はとても長くなることだろうが、できれば、阿修羅像を見た後に、夕刻の上野公園をゆっくり散策してみたいと思っている。

 阿修羅像は、当時、唐からもたらされた『金光明最勝王経』をもとにつくられたと考えられます。そこには、これまでの罪を懺悔して、釈に帰依することが説かれています。阿修羅の表情は静かに自分の心を見つめ懺悔する姿を表したものと考えられます。

 一つの体に3つの顔と6本の手を持つ阿修羅像は、とても魅力的で底知れぬ魅力がある。そして、やはり奥深い複雑さを秘めつつも、なぜか不思議なくらい素朴に佇んでいるように見える。

 また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。
 阿修羅像を見ると、あるいは、その後散策でもしていると、きっと向田邦子を思い起こすことだろう。

 向田邦子に関する著作を読んでいく中で、向田邦子の色々な面をかいま見たような気になった。向田邦子が書いたこと、書かなかったこと、口にしたこと、口にしなかったこと、そんなものを、ほんのわずかだけれど、少しだけ感じられるようになった気がした。その中の大きなシンボルの一つが「阿修羅」だ。

 ”向田邦子シリーズ”は…内容は何も決まっていなかった。…そこで阿修羅が出てきた。これは奈良、興福寺の阿修羅像からきていた。阿修羅像は三面の美少年風の乾漆像である。怒り、嫉妬、争いなどを象徴していたが、向田は特に”怒り”の象徴として捉えた。…それで、和田(勉)にペンを握らせて「阿修羅のごとく」と書かせ、「うん、これでいいわ」と和田にいった。
 小林竜雄 「向田邦子 恋のすべて
 (向田邦子には)喜怒哀楽でいうと「怒」と「哀」はあると思う。しかし、本当の意味での「喜」と「楽」はなかった思います。
 和田勉が「向田邦子をめぐる17の物語 」中で語ったこと

 「阿修羅のごとく」が作られて行くなかで、緒方拳は続編への出演を拒否し、演出の和田勉は向田邦子と絶交するに至り、佐分利信は脚本読みの途中で脚本を拒否し帰ってしまったという。
 何だか、それは、向田邦子が根本として矛盾と限界を抱え、その矛盾と限界を一つの収まる形に当てはめようとしようとする「阿修羅のごとく」の中では、自然と起きざるをえなかったことのようにも思える。

 阿修羅像ではないが、三つの顔を持つ像というと、そして向田邦子というと、久世光彦が書いたこんな一節を思い出す。

 今度はこのお寺の御住職がやってきた。…一日に三度、顔が変わるというのである。…いまは泣いているが、もうしばらくしたら怒りだす。そうして夜が明けると、何事もなかったように笑っている。だから、三変わり観音と言うらしい。

 向田邦子という人についていろいろ書いてきて、いったい私はあの人のそんなに幾つもの顔を知っているのだろうかと、ふと考えてしまう。…多分、誰にも見せていた顔を、私も長い間ずっと見てきただけである。…そんなことから言えば、私などより特殊な人間関係、たとえばあの人に愛された人、憎みあった人、心配された人、可愛がられた人ーいくらもいるに違いない。あの人もそういう人の前では、激しく怒ったり、涙が出るくらい笑ったりしたはずである。

 三変わり観音の三つの顔で言えば、(私は)笑い顔を知っているぐらいのもので、それだって心から笑った顔だったかどうか、よくは判らないのである。

 (向田さんが一日の大半顔を合わせていた)それらの人の前で、あの人は結局のところ、泣きも笑いも怒りもできなかったのではないか。内心には百の表情でも足りないくらいの思いがありながら、たった三変わりさえもできなかったのではないか。…家族にさえ三変わりの顔を見せられなかったのが、もしかしたら、私にとっての向田邦子のすべてなのかもしれない。ということはーもしかしたら私は、これだけの紙数を費やして、あの人の不幸について書いてきたのかもしれない。
 久世光彦 「触れもせで―向田邦子との二十年
 観音様の顔は、本当に日に三度変わるのだろうか。…何とか暇を作って確かめに行ってみようと思う。その長い一日の間にやっぱりあの人のことを考えてしまうだろうな、と思うのである。

 久世光彦 「触れもせで―向田邦子との二十年

 向田邦子が口にしなかったものはいくつもある。そのひとつ、次は、向田邦子が頑なまでに口にしなかったという有吉佐和子について書いてみたい、と思う。

2009-02-08[n年前へ]

向田邦子と源氏物語と精神的別居  share on Tumblr 

 谷崎源氏にめぐりあったのは、昭和三十八年から九年にかけてではなかったどうか。…私の気持ちは一番沈んでいた頃だった。一身上にも、心の晴れないことがつづき、仕事の面でも、わかれ道に立っていた。
 これは、向田邦子の「源氏物語・点と線」の中の一節だ。単行本には収録されておらず、「向田邦子 全集第二巻 」の補遺の節で読むことができる。

 向田邦子は、出版されている本は少ない割に、似たような話・似たような文章・似たような表現が頻出するように思う。「昭和三十八年から九年にかけて…一身上にも、心の晴れないことがつづき、仕事の面でも、わかれ道に立っていた」といった文章も、他の随筆の中でも(たとえば「父の詫び状 」収録「チーコとグランデなど」)何度か読んだような気がする。

 その後、(父が向田邦子を気遣いわざと仕掛けた)口げんかから、

些細なことから父と言い争い、
「出てゆけ」
「出てゆきます」
ということになったのである。
 「父の詫び状 」収録「隣の匂い」
というわけで、向田邦子の一人暮らしが始まるわけだが、その少し前、昭和37年に向田邦子は「精神的別居」という随筆を書いている。この随筆は単行本には収録されていないので、やはり全集の中でしか読むことができない。
たまりかねて、アパートへ移りたいと申し出たら、これは、一言のもとに反対された。
(中略)
しかたがないので目下、家族とは精神的別居という手段をとっている。
 もっとも、世間には、…
 後になってから書かれた文章でない分、この昭和37年に書かれた「精神的別居」という文章は、後半少し道を失っているようにも思える。

 だからこそ、興味深い。

2009-02-09[n年前へ]

「”もし”と”もしも”の違い」で「もしも明日が」を論理的に読み解く  share on Tumblr 

 「もし」と「もしも」は、似ている言葉だけれど、違う言葉だ。たとえば、新明解国語辞典  (第3版 )の頁をめくってみると、一番目にあるのは「もし:将来起こりうることのひとつを取りあげて言うことを表す」というものだ。それに対し、「もしも」をひくと「もしも:”もし”を強めて言う言葉。特に起こってはならないことを予測して言う言葉(もしもの事(=万が一の事。特に死)」とある。確率的に考えれば、「もし」の方が「もしも」よりもずっと可能性が高い、という具合である。

 そんなことをしていた時、それなら、わらべが歌った「もしも明日が 」(下に貼り付けた動画)の歌詞の話になった。

もしも明日が 晴れならば…
もしも明日が 雨ならば…
もしも明日が 風ならば…
もしも季節が 変わったら…
 この歌詞を素直に聞くなら、明日が万が一にも「晴れ」でもなければ「雨」でもないし、「風が吹くこと」もない。明日は必ず、「風なく雪が降る日」や「曇り日」なのだろうか。また、それと同時に、この歌の中では季節も変わることがない、のである。

 だから、この歌の歌詞を素直に感じ取っていくと、「明日という日はない」という暗い言葉に聞こえてくる。「明日」という日がなければ、それは晴れにも雨にも風にもなりようがないわけである。そして、もちろん、季節も変わることがないということになる。

 「もし」と「もしも」の意味の違いを考えてみると、「もしも明日が」という曲がいかに暗く切なく哀しい曲であるかが見えてくるような気がする。

 「もしも明日が」は実に怖い曲なのである。



2009-02-10[n年前へ]

「技術者」と「もしも」  share on Tumblr 

 「もし」と「もしも」の違いについて話題にしていると、ある(私が尊敬する)先輩技術者のひとりがこんなことをいった。

技術者は「もし」という言葉は使わないかもしれないなぁ。「もしも」という言葉は、リスクを考える状況において使うかもしれないけれど。
 なるほど、確かにそうかもしれない。「もし、○×な場合には~」というような言葉であれば、それは、「○×な場合には~」でも構わないわけである。「そのような場合」は当然考えている状況なのだから、わざわざ「もし」をつける必要がない、ということになる。

 ただし、やはり「もしも」というような状況、かなりの想定外の状況での対応は迫らざるをえないことも多い。だから、そんな時には、「もしも、○×のようなことが生じたら~」というフレーズは、技術者が使うことがある、というのだ。

 文章を書く道具は、書かれる文章の内容を変えるという。それとは逆に、何かを語る時には、その語る相手・状況といったもの次第で、その言葉を語る口癖が生まれてくるのかもしれない。

2009-02-11[n年前へ]

iPhoneアプリ版 「ナンシー"小"関風パッチもん版画」作成ソフト  share on Tumblr 

 今週中にiPhoneアプリ版 「ナンシー"小"関風パッチもん版画」作成ソフト(by gravity loves time)が、近日中にAppStoreから、「無料で」使用できるようになるようです。下に貼り付けた動画で、使用しているようすを眺めることができますが、不思議なくらい、とても気持ちよく、楽しのです。

 リリース予定日は、今のところ2月28日予定(前倒しの可能性あり)ということですから、iPhoneを持っている人は使って遊んでみると、良いのではないでしょうか。

 きっと、iPhoneを使ってこのソフトウェアを作った方は、完成品をいじりながら、とてもワクワクしただろう、と想像します。何だか、iPhoneがとても欲しくなりますね。そして、アプリケーションを、とても、とても、作ってみたくなります。





2009-02-12[n年前へ]

「豊かさって何ですか?」って聞かれても……困るよね。  share on Tumblr 

 以前、「豊かってどういうことでしょうか?どうしたら手に入るのでしょうか?」と、ある経済学者に聞いたことがある。あることをきっかけに、経済学に興味を持ち、まだプチバブルが続いていたように感じたその頃に、その経済学者に「豊か」って何でしょうか?と、知りたかったことを聞いてみたのだった。

 中村達也氏が書いた「読む―時代の風景342冊 」を読んだ。その中の、多辺田政弘氏の「コモンズの経済学 」に対する書評に目を惹かれた。

 あまりにまともな問いをあまりにも正面切って出されると、人は答えに窮してしまう。大概の経済学の辞典に「経済」とか「豊か」という項目がないのは、きっとそのせいかもしれない。
 そういえば、私が「豊か」って何でしょうか?と尋ねた経済学者、その先生も口を開くのにかなりの時間をかけて、つまりは、やはり少し答えることに窮していたように感じた。
 こういったまともな問いには、大概の経済学者は近寄らないというのが相場である。(中略)こういった問いには黙って目をつむり、自分自身の時間とエネルギーの効率化をはかるのが利口というものである。
 冒頭の問いを、私は(問うた相手の)経済学者の先生に、「個人の豊かさ」とか「グローバルな豊かさ」とか、さらには、「未来」といったことを、聞いてみたかったのである。今考えてみると、それは、あまりにまともな問いをあまりにも正面切って、聞いてしまったような気がする。

 私が冒頭の質問をした経済学者とは、この本の著者である、中村達也氏だったのである。

2009-02-13[n年前へ]

「同じだけの長さのエピソード」と「感情のエントロピー」  share on Tumblr 

 香山リカの「乱読パラダイス」を読んで、読書ノートに書き写したのが「同じだけの長さのエピソード」という章だ。

 世の中には、エピソードを語ることでしか伝えられない感情もある。
 この章では、香山リカの「小さな物語」が書かれ、そしてそのエピソードから表される感情は、そこに込められた情報は、そのエピソードの長さを介してしか伝えようがないのではないか、ということが書かれている。
 しかし気持ちがわかる、とは本来、こういう話をすることでしか人に伝えられないものではないか。
 もしかしたら、そのエピソードの長さ、というものが、気持ち・感情の「情報量」なのかもしれない、とふと思う。ということは、感情や気持ちを伝えるためには、それに至るまでの時間と同じだけの時間が、結局の所必要となるのかもしれない。そして、それは、実際問題としては得られそうにないものでもある。

2009-02-14[n年前へ]

もしもFreeLine-Skate(フリーラインスケート)に自由自在に乗れたなら  share on Tumblr 

 FreeLine-Skate(フリーラインスケート)や「エクスライダー 」を手に入れ、自由自在に乗れるようになってみたい。「スケートボード・スノーボード・インラインスケート、そしてサーフィンの感覚を全て(携帯性抜群で手のひらサイズの)コンパクトに詰め込んだ」という説明を聞いてもよくわからないかもしれないが、右上の写真や簡単な説明、あるいは下に貼り付けた動画(参考動画集)などを見てみると、私と同じくその凄さ・面白さに惹かれる人たちがいるはずだ。

 一回、人気のない山道をインラインスケートで滑り降りようとして、茂みの中に突っ込んで傷だらけになって以来、すぐにやってみる気にはなれないが、この気持ちよさそうな滑走感は一度体験してみたい。






2009-02-15[n年前へ]

バブルと不況とフィードバック  share on Tumblr 

 一頃前は、本屋には株式の本が平積みされていた。そして、株で莫大な利益を出した人たちの本や、それに右へ倣(なら)えしたようなが並んでいた。

 そんな書店の話をしながら、「今、バブルですよね」「このバブル感・高景気感は異常だと思いませんか?」というようなことを、新橋で飲みながらよく話した。

 景気が良くなり、その高揚感がさらに消費や株への投資を増やしていく……そんな「バブル」な風景が、本屋に並んでいる書籍から見えていた。

 こういった現象、たとえば「景気が良くなると、消費が増えて、さらにもっと景気が良くなる」といった現象は、ポジティブ・フィードバックと呼ばれる。「ある方向に何かが動いたとき、さらにそれを強める方向に力が働く」ことをポジティブ・フィードバックというのである。

 ポジティブ・フィードバックと反対に、「ある方向に動いたとき、それと逆方向に力が働くこと」をネガティブ・フィードバックと呼ぶ。下に描いたように、谷底のボール(あるいは登山者)にはネガティブ・フィードバックが働くわけである。




 ポジティブ・フィードバックからは安定な状態は生まれない。上がり続けるか、下がり続けるかで、結局は「発散」してしまうことになる。

 次に平積みされる本が、もしも「節約ライフ」的な本だとしたら、景気にはまさにポジティブ・フィードバックが働いていることになる。それらの書籍は、不況への後押しをするポジティブ・フィードバックである。「ポジティブ」という名前が付けられた、しかし、それは同時に不況への案内図なのかもしれない。

バブルと不況とフィードバック






2009-02-16[n年前へ]

「機械制御工学」のススメ  share on Tumblr 

 制御工学の本は、読んでいて面白いものも多い。もちろん、そんな本の数は半分以下ではあるけれど、制御に関するさまざまなエピソードを紹介しつつ、制御の理論と実践を解説してくれる本がある。

 金子敏夫の「機械制御工学 」はそんな本の一つで、これまで読んだ制御工学本の中でも、特に「フィードバック制御の発祥から発展と解析」を説明する数章に関しては、一番面白かった。

 たとえば、実に充実した制御技術発達の経緯についての年表もあり、水洗トイレのタンク水量調整に使われる浮子を用いたタンク液面制御は1750年に作り出されたことがわかったり、1776年にはアダム・スミスが国富論の中でフィードバックの考えを記述し、さらに次の年、1787年には蒸気機関の調速機と同じ原理の、製粉用ガバナ付リフトテンダが発明されていることがわかる。

 情けない話だが、この本を読んでようやくラプラス変換のS空間が頭の中に直感的にイメージできるようになった。もしも、ラプラス変換が「公式としてはわかるけど…」と思う人は、立ち読みしてみても損はないと思う。

2009-02-17[n年前へ]

久世光彦から見た向田邦子  share on Tumblr 

小林竜雄の「久世光彦vs.向田邦子 」という本を見かけたので、買って読んだ。朝日新聞の記事「姉を慕い続けた少年ジャック」の準備作業をきっかけに書かれた本だ。

 特にその中でも、向田邦子が久世光彦のエッセイを、彼に対しただ一回だけ褒めた時のことを彼が書いた文章、クロワッサン (1980/07/25)の「向田邦子さんのこと」を魅入られるように読だ。向田邦子は久世光彦のエッセイを(久世光彦に)「ペダンチック」で嫌いだと言ったが、このエッセイ「向田邦子さんのこと」だけは久世に対して絶賛を惜しげもなく贈ったという。久世は「自分のことを褒めた文章ならいいのか!」と苦笑いしながらも、そんな向田邦子の身勝手さも好きだったという。

 あの女らしさが好きなんです。
シナリオにしてもエッセイにしても隅から隅まで女なんです。……きっと、女の浅ましさとか嫌らしさ、逆上とか嫉妬、そんなものをちゃんと人並み以上に持ち歩いている人なのです。だから、一番女らしいと思うのです。

久世光彦 「向田邦子さんのこと」
 あの人のドラマを撮っているとき、いつも女は嫌だなと思いながら撮っています。…でも、いつの間にか女って可愛いな、女ってやっぱりいいなと思っているのに気がついて、腹が立ったり苦笑いしたりしています。そんなずる賢い、いかにも女らしさも好きなんです。

久世光彦 「向田邦子さんのこと」

 久世光彦の目を通すと、本当に向田邦子を好きになる。この不思議な感覚は男女関係なく感じるものだろうか、それとも、もしかしたら感じ方に違いがあったりするのだろうか。

2009-02-18[n年前へ]

できたことは少なく、したいことは未だ多く  share on Tumblr 

 「ケータイが色を教えます、色覚障害の富士通社員ら開発」という朝日新聞の記事を読んだ。

 赤と緑などの色を区別することが難しい色覚障害の人に、ケータイが色を教える――。カメラ付き携帯電話を使って、200種以上の色の名前を簡単に判別できるソフトを富士通が無料公開している。自らも色覚障害のある社員が開発にかかわった。
 開発リーダーを務めた富士通デザインの吉本浩二さん(33)は盲学校(現・視覚特別支援学校)を卒業後、大学で物理を学び、03年に入社した。重度の弱視で色覚障害もある。「情報技術(IT)を利用して障害者の支援ができないか」と考えてきた。

 いつのことだったか、人それぞれの「色」に役立つことをしたい、と心底感じたことがある。それから、少しづつそういうことができるよう努力をしていても、できたことはまだ少なく、したいことは未だ多い。

2009-02-19[n年前へ]

ボックスシート  share on Tumblr 

人生という名の列車  少し長い距離を走る列車には、二人がけの席が対面式に向かい合う「ボックスシート」がある。そんなボックスシートに座るとき、どの席に座りたいだろう。窓側だろうか、それとも通路側だろうか。新たな景色が遠くから迫ってくるようすが見える(列車の進行方向に向かう)側の席だろうか。それとも、そばを通り過ぎたものが、段々と遠ざかっていくのが見える(列車の後方を眺める)側の席だろうか。

 以前は、遠くの小さなかすかなものが大きくはっきりと見えてくるののが、そしてそれが明瞭になるさまを眺めるのがとても大好きだった。だから、いつも列車の進行方向が見える席に座っていたように思う。

 しかし、ふと気づくと、最近は列車の後方が見える側の席に好んで座ることが多くなっている。横を通り過ぎたときにはよく見ることができなかった景色が、小さくなっていくようすを眺めることが、そんな遠くへ過ぎ去っていく景色を見ることの方が気持ちよくなってきたような気がする。

 もしかしたら、それは動体視力が落ち、老眼が進んできたせいかもしれない、とも思う。若い頃は、視力が良くて、遠くの小さな景色が近くまで迫ってくるさまも全部見えていたけれど、今では近くのものは見えなくて、速く動くものも見えなくて、遠くのものしか見えなくなりつつあるせいかもしれないとも思う。……けれど、こんな風にも思う。

きっと僕は尋ねられたんだろう
生まれる前 どこかの誰かに
「未来と過去 どちらか一つを
見れるようにしてあげるからさ
どっちがいい? どっちがいい?」
そして僕は過去を選んだんだろう
RADWIMPS 「オーダーメイド」

 走る列車は人生に似ている。そして、私が乗っている列車は、もう中間地点を過ぎた走っているのだろう。マラソンで例えれば、中間往復地点を過ぎた辺りを走っているように思う。未来よりも、過去の方が長いくらいの場所を、今は知っているのかもしれない。

 そして、それに応じて、「ボックスシート」に座る時の好みが変わってきたのかもしれないと、ふと考えた。

2009-02-20[n年前へ]

男性自身がイヤでも見える凸面鏡ボタン  share on Tumblr 

 男性トイレの小便器の前に立って、放水作業を始めたとき、ふと水を流すためのボタンが視界に入った。「視界に入った」といっても、男性用小便器の水洗ボタンは、よほど背の高い人でもない限り、視界に入る位置にあるのが普通だ。

 その水洗ボタンは、丸みを帯びた形状で、しかも、綺麗に磨かれているので、凸面鏡状になっていた。そして、その凸面鏡の中心で拡大され写り込んでいるのが、何と放水作業に使われる中心部品なのである。……これは何だか、とても居心地が悪い。

 男性用小便器の水洗ボタンは、丸みを持った形状にしてはいけない、と思う。ボタンの清掃作業を考えると、平滑に越したことはない。だから、金属ボタンを綺麗に磨くことはしょうがない。つまり、鏡状になるのはしょうがない。だとしたら、男性自身が(広角が写り込むために)イヤでも見える凸面形状にするのは、少しマズイような気がする。

 最近では、男性用小便器は自動洗浄便器が多いから、男性用小便器の「水洗ボタン」は少ないかもしれない。とはいえ、これからは、色々な場所のトイレに入るたびに、「水洗ボタン」の形状に注目してみようと思う。

 そして、いつか、光学写り込み計算でもしてみよう。もしかしたら、私が見た現象が実は特異的だったりするのかもしれないのだし。

男性トイレの凸面鏡ボタン男性トイレの凸面鏡ボタン






2009-02-21[n年前へ]

「キュリー夫人伝」と「有吉佐和子」  share on Tumblr 

 「キュリー夫人伝 」に感動し(たとえば、「有吉佐和子 (新潮日本文学アルバム)  p.17)理科の道を志そうとしたこともあった女性の話を、少しばかり書こうと思う。

 女性の名前は、有吉佐和子だ。(理科の道を志そうとしたからこそ書き上げることができた)「複合汚染」を書き、「華岡清州の妻」を書き、そして、「悪女について」を書いた作家である。

 彼女は自伝「作家の自伝 (109)有吉佐和子 」中でこう書いている。

 女には限らないけれど、仕事に打ち込んだ場合、「才」とか鋭い神経とかいうものは、あれば必ず邪魔なものだ。大成するとか、本当の意味での成功に必要なのは鈍根性だと私は思っているが(中略)

「先生たち」 p.26
 有吉佐和子は「才女」と呼ばれた。「才能」とは「可能性」でもある。そして、時に、「可能性」を多く与えられ、そして、鋭い神経を兼ね備える人たちがいる。そんな人は、有吉佐和子のような人たちを知っておいても良い。

 「有吉佐和子の世界 」という本がある。この中で、橋本治が書く「理性の時代に」という文章は、有吉佐和子のような人たち、いや、それ以外のすべての人が読むべき文章である。

 女たちは生まれ、育ち、そして学ぶ。学んだ彼女達はどこへ行くのだろうか?学んだ彼女たちは当然のように結婚し出産し、生活の中心に腰をそえ(あるいはそえざるをえなくなって)、主婦という没個性の中に沈んで行く。一体彼女達が身につけてしまった知性というものはどこに行くのであろうか?知性という窓を通してかつての日に見た可能性はどこに行くのだろうか?知性によって支えられた理性を、そうした理性を持った健全な人々を正当に評価してくれるような幸福な日常があるとは、私には思えない。そしてそうした幸福がたとえあったとしても、それならば、その”幸福”によって遮られる、かつての日にかいま見た漠然たる可能性の行く末は?
 たとえば、「キュリー夫人伝 」に感動し理科の道を志そうとしたりした女性たちは、きっと他にもたくさんいることだろう。「出口もないまま、本を読む習慣だけは青春の日に身につけてしまった彼女達」の一つの結晶として有吉佐和子が書いたものごとを通じ、橋本治が語る文章は、必見だと思う。
 そのことの前には、女性に関する一種混沌としか呼びようのない現実が登場する。これを抑えない限り、すべての女性に関する認識は偽りであり(中略)

P.116 橋本治 「理性の時代に」@「有吉佐和子の世界

2009-02-22[n年前へ]

「悪女」と「嘘」  share on Tumblr 

 ずっと昔、よく深夜の小平霊園で時間を過ごした。何人かで深夜にかくれんぼをしたり、飲んだ後、小平霊園の中を、瓶ビールを飲みながら歩いたりした。高校時代に夜を過ごした場所は、小平霊園と小金井公園と多磨霊園が多かった気がする。

 その小平霊園の一角で有吉佐和子は眠っている。その墓石を写した写真が「有吉佐和子 (新潮日本文学アルバム)」のp.95掲載されている。右上の写真は、その小平霊園の中を歩きながら撮影した写真だ。

 この本に橋本治が書いている「彼女の生きていた時代(p.97)」は本当に魅力的だ。

 逆境にめげずにひたすら前へ突き進んで行く意志の強い女を書かせたら、彼女の右へ出るものはいないだろう。しかし、それだけではないだろう。
 一人の女が、女としての論理を一貫させて生きようとした時、そこには必ず、世の中というものを作る男の論理との衝突が生まれる。その衝突を回避するために、女にとって”嘘”とか”沈黙”といったものは必須になる。
 橋本治の目を通して、有吉佐和子が書く「悪女」あるいは「悪女の嘘」を読むと、それらが本当に魅力的で、正確すぎるくらい正確なスケッチに見えてくる。そして、その「悪」や「嘘」が魅力的に見えてくるのが不思議だ。

 そんな「悪女」を有吉佐和子が描いた小説「悪女について 」について、有吉佐和子自身が書いている文章が、これまた良い。

2009-02-23[n年前へ]

小型・液晶タブレットのMacintosh ノート  share on Tumblr 

 小型で高解像度、そして、液晶タブレット画面を備えたノート型Macが開発・出荷されて欲しい、と以前から願っているのですが、そういった製品は未だに登場していません。

 といっても、非公式ということになると、他社製タブレットPCにApple Mac OSXをインストールしている人たちがいます。たとえば、下の動画のような具合です。




 こんな動画を眺めていると、 Lenovo ThinkPad X61Tablet(できれば12 インチSXGA+モデル)のようなハードウェアでAppleがノートを出してくれないだろうか、と切望してしまいます。B5サイズ以下で、1500x1100ピクセルくらいの解像度で、そして、しっかりとしたキーボードと(キーボード上で手を動かさずに済む)トラックポイントを備えたMacintoshノートブックが出てくれないだろうか、と思います。

 タブレットというと「お絵かき」専用と思われるかもしれませんが、たとえば、WEBブラウジングなどをしていると、意外なほどにタブレット画面というのは自然に使うことができることに気づかされるものです。変なたとえですが、ワープロより小さなホワイトボードの方が自然に使うことができる、のと少し似ています。

 色々調べてみると、Dellや、hp、あるいは、Lenovoなど多くのタブレットPCでMac OS Xを動かしている人がいます。液晶ディスプレイのデジタイザも、WACOMドライバを使う者であれば、特に問題なく動作させることができるようです。小型・液晶タブレットのMacintosh ノートをAppleが発売してくれる日は、いつなのでしょうか……。

2009-02-24[n年前へ]

FOMAネットワーク接続の自動販売機  share on Tumblr 

 自動販売機の前に立つと、自動販売機の上隅に、黒い変な物体があることに気がついた。よくよく眺めてみると、FOMAのアンテナである。SUICA支払いが可能な自動販売機なので、課金情報などをネットワーク通信するためのFOMA通信ユニットが、上隅に取り付けられていた、ということなのだろう。

 SUICAを使うことができる自動販売機以外にも、(たとえばFOMA接続を介して)ネットワークに接続された自動販売機がある、と聞く。これからの時代、ますます、自動販売機・ポスター・エアコンといった、各種さまざまなものが、ネットワークに接続されていくに違いない。

 そんな時代では、どんな便利・不便利があって、何が必要となって、何が不要となるのだろうか。

FOMAアンテナ自動販売機FOMAアンテナ自動販売機






2009-02-25[n年前へ]

「液晶プロジェクタ+ホワイトボード」で修正イメージを整理する  share on Tumblr 

 以前、XGA(1024x768)の液晶プロジェクタを買った。買った当時は10万円以上したが、今では5万円程度 ほどになっている。電気製品の価格低下ぶりを眺めると、嬉しいような・悲しいような、複雑な気分になる。

 液晶プロジェクタは、壁に張りつけたA1サイズのホワイトボードに向けて設置してあり、自サイト用WEBプログラムを書いた時の、動作イメージ作成・確認&修正点整理をする時に使っていた。動作画面に手書きでメモを(実に直感的に)書き込んだり、書き込みメモを消したりすることができると、気持ちよく作業ができる。その上、そのラクガキ付き画面をデジカメで撮影しておくだけで、次の自分がしなければいけない修正作業も「わかりやすく」なる。

 最近では、Tablet PCを使うようになってしまったので、液晶プロジェクタは使わなくなってしまった。けれど、何人かで画面を見ながらディスカッションしたりするようなことがある人であれば、「液晶プロジェクタ+ホワイトボード」(+デジタルカメラ)という組み合わせは、(今のところ)最高だと思う。

 いつか、PCなどのデジタル表示と手書きメモを自然に組み合わせることができる器具を、作ってみたいものである。



「液晶プロジェクタ+ホワイトボード」






2009-02-26[n年前へ]

錯視をフィルタで除去したはず…なのだけど!?  share on Tumblr 

 朝日新聞に(地震波や株価などの解析に使う数学的手法を応用し)錯視画像から錯視を引き起こす要素を取り除く研究の話題が書いてあった。右に貼り付けた画像がその記事に載っていた画像で、上図が「錯覚で反時計回りのらせんに見える同心円図形」で、下図が「錯覚を引き起こす要素を取り除いた画像」である。

 しかし、これが何だか妙だ。「錯覚を引き起こす要素を取り除いたはずの画像」でも、やはり錯視が見えてしまうのである。作成画像を印刷するまでの過程で、「錯視を取り除く処理」の逆変換に似た処理がかかってしまった、なんていうこともありそうだ。

 …とはいえ、錯視が解消されていないように見えるのは私だけで、他の人には実は錯視が解消して見えたりするのかもしれない。他の人には、一体どのように見えているのだろうか?

錯視をフィルタで除去したはず…なのだけど!?






2009-02-27[n年前へ]

「理解術」が「説明術」を支えている  share on Tumblr 

 わかりやすく物事を説明できる人の話を聞いていると、多くの場合、その人たちが私たちにわかりやすく話をすることができる理由に気づかされます。それは、その人自身の中で、話題・議論の中身について「十分に物事が整理されている」ということです。そして、その人自身の中で「わかりやすい話」として十分な理解ができている、ということです。

 つまり、「説明術」の根本にあるのは「理解術」なのです。その人たちは、「(十分に理解した上で)わかりやすい話」を話しているから、「わかりやすく物事を説明できる」というわけです。

 もちろん、100人の人がいれば、同じ1つのことにたいしても100人それぞれの「理解」があることでしょうから、わかりやすい説明をできる人たちは必ず、その人なりの十分な理解の上でのわかりやすさ、を持っています。

 たとえば、「小説と物語の違い」を尋ねられたら、あなたならどう答えるでしょうか? 作家 江国香織は「彼女たちは小説を書く」の中でこんな風に、インタビュアに対して、わかりやすく、さらりとその答えを口にします。

 小説というのは文章のものだと思うんです。だから、何が書いてあるかというよりも、どう書いてあるかという方が圧倒的に大事だし。
 物語は何が起こるのかが大事だし、第一、書かれなくても(物語は)存在するでしょう?

彼女たちは小説を書く」 p.185
 「第一、書かれなくても(物語は)存在するでしょう?」と言われたら、「はい、そういえば、そうですね」と思わず頷き答えるしかない、と思う。そして、こんな説明をされたら、たとえば、「そうか、人は誰でも、60億人の人がいれば60億の物語があるけれど、けれど、(文章にされていない)それらは小説では確かにないんだな」と、私たちも「小説と物語の違い」について、少し理解することができるのです。

 ところで、「説明術」の根本にあるのは、あくまで「十分に理解した上でのわかりやすい話」です。「十分な」が重要です。「繋ぎ換え」「端折り」などで、一見わかりやすい話に思わせる・聞かせるものではない、ということも何より大事かもしれない、と思うのです。

2009-02-28[n年前へ]

Matlab/Simulinkの試用版  share on Tumblr 

 Matlabや「Simulink」のブログのように、Matlab/Simulinkを使った記事を書くことがあります。Simulinkでモデルを作り、検証シミュレーションやハードウェア制御プログラムを組んでみて、その結果について紹介してみたりすることがあります。

 そんな時、実際にMatlab/Simulinkを使ってみたり、Simulinkモデルを使ってみたりしたい、と思う人もいるかもしれません。そんな時、一番手っ取り早いのは、Mathworks社から15日限定の試用版をダウンロードして使ってみる、ことです。あるいは、学生さんなら迷わずわずか$99の学生版を購入することです。

 それでわからないことがあったら、サイバネットシステム社などの無料紹介・体験セミナなどを受講してみると良い、と思います。

 というわけで、これからは各種言語ソースやMathematicaノートブックと同じように、何かSimulinkモデルを作ったら、そのモデルをhirax.net内に置いていこうと思います。そのために、試用版の入手先などを今日は書いてみました。