2009-04-05[n年前へ]
■光源氏が語る「物語・小説」
「源氏物語 」より(リンク先は瀬戸内寂聴 訳)。
善いこと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって小説というものが書き始められたのだろう。よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られているものが小説であると見ればよいかもしれない。
與謝野晶子訳 「源氏物語」 二十五帖 蛍
2009-04-09[n年前へ]
■源氏物語も政治の道具
「寂聴と磨く「源氏力」全五十四帖一気読み! (集英社新書) 」
瀬戸内寂聴: (紫式部は)面白い物語を書くと評判になって、当時の最高権力者、藤原道長に召し抱えられて、道長の娘の中宮彰子の女房になりました。…その時の一条天皇は文学趣味があり、彰子より年上の定子という、清少納言が仕えていた方のお姫様とすごく仲が良かった。その天皇の興味を幼い彰子に向けさせるために、道長は紫式部を雇ったわけ。源氏物語も政治の道具だったということです。
2009-04-18[n年前へ]
■源氏物語」がわかる。
AERA Mook 「「源氏物語」がわかる。 」から。
源氏物語などに見える「つれづれ」は、単に手持ち無沙汰で退屈したさまをいう語ではなく、外見は手持ち無沙汰に見えても、内心は何かをしたい意欲を強く持っているのに、それから疎外されてできず、鬱屈している状態をさす語なのである。
「かぐや姫」から”いかに生きるか”へ飛躍した新しさ
増田繁夫
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