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2009-05-21[n年前へ]

「新 物理の散歩道〈第1集〉」が文庫版になった 

 ちくま学芸文庫から「新 物理の散歩道〈第1集〉 」が文庫本として出ていた。長らく絶版になっていた、しかし、日本が誇る理系随筆・随筆・軽論文を紡ぎだしたロゲルギストたちの本を、また、本屋で買うことができるようになるのは素晴らしいと思う。

 大学に入学した当時、教養の図書館でこの本を見つけ、「理系」に進んだことを感謝しながら読んだ。そして、全10巻を読み終えた時には、その続き、本に収録されていない話を読みたいと痛切に感じたものだ。

 今回のちくま学芸文庫版では、「ロゲルギストのその後のこと」「最近の”素直”な学生のこと」などについて、何ページにもわたる「あとがき」が新たに加わっている。物理の散歩道のファンだった人たちは、そのあとがきだけでも、読んでみると良いと思う。そして、「物理の散歩道」を読んだことがない人は、手にしてみると良い本だと思う。本屋に溢れる、目の前の”トク(得)””わかりやすさ”を与える本とは違う、本当の”トク(得)””わかりやすさ”を感じることができると思う。

物理の散歩道について

 専攻が異なる物理学者7人が、日常の出来事のふしぎをさまざまな角度から議論し、あるいは実験で確かめていく。ときに予想外の結論は「科学少年たち」を夢中にさせた。ディスカッションの楽しさと物理的思考法のみごとさが伝わる定評のエッセイ。

2010-02-24[n年前へ]

評論・エッセイが届くのは「賢い人」(だけ)ではないのか? 

 鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」No.658 「物語という手段でしか届かないもの」から。

 たぶん、評論やエッセイで届けることができるのは、じつは、「賢い人」なんじゃないかと思っているのです。
 もっとガンコでもっと臆病でもっと弱くてもっと真剣でもっと壊れやすい人に届けるためには、物語という手段をちゃんと考えないといけないんじゃないか、と思いだしているのです。

 この記事原文では、「賢い人」には括弧がついていません。つまり、賢い人と書かれています。しかし、あえて、上の文章では括弧を付けました。

 そう改変した理由は、そうした方がより現実に近く・より普遍性を持つのではないだろうか、と私はそのように思うからです。そう思うので、括弧(カッコ)を上記文章に付加してみました。

2010-08-02[n年前へ]

「女の子のお母さん」と「男の子のお母さん」 

しばらく前に、 角田光代が話す言葉を読んだ。

 今日たまたま、『オレンジページ』のホームページで、山本ふみこさんという料理研究家の方が連載されているエッセイを読んだのですが、(中略)先生が「自分のお子さんの好きなところを一人ずつ言っていってください」と言ったんですって。
 そしたら、「全部が好きです」とか「すごく優しいところが好きです」とか肯定的に言うのは全部男の子の母親だったと書いていて、女の子をもっているお母さんたちは、もうちょっと娘のダメなところを話して、「それでも好きだ」と話したと。山本ふみこさん自身は「笑顔が好き」と答えたというエッセイだったんです。自分は子どもがいないんですけれども、なんとなくわかるなぁ、と。

2011-01-28[n年前へ]

「しゃべり過ぎの時代」と「ヒューマン」 

 向田邦子が、

 現代は、しゃべり過ぎの時代である。
書いたのは、twitterもない、何十年も前のことになる( 「男どき女どき 」)。そんな向田邦子のことを表現する久世光彦の言葉をいつも思い出す。
 ぼくは向田邦子の一番いい時期とつき合っていたんだと思う。非常にいたずら好きのはずんだ時期で、嘘つきの時期、見栄っ張りの時期。そういうのがヒューマンだと思うから。

久世光彦
 あの女らしさが好きなんです。 シナリオにしてもエッセイにしても隅から隅まで女なんです。人はよく(向田邦子を指して)女の優しさとか可愛らしさ、ちょっと悲しいユーモアとか暖かな賢さに溢れた人と言いますが、そんなことはありません。きっと、女の浅ましさとか嫌らしさ、逆上とか嫉妬、そんなものをちゃんと人並み以上に持ち歩いている人なのです。だから、一番女らしいと思うのです。

久世光彦



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