2004-08-14[n年前へ]
■ヒューマン・ビート・ボックス&バイオリン&二胡
"ヒューマン・ビート・ボックス" AFRAと"バイオリニスト"庄司紗矢香、そして、二胡演奏者のジャー・パンファンのセッションを楽しめるコマーシャル。融合という点ではあともう少し、というところかも。
2005-05-28[n年前へ]
■「狭い世界(せかい)」と「世間(せけん)が狭い」
最近はPCを介して作業可能な仕事もたまっているので、あまり意味のない雑務に追われそうな今週は外へ出ることにして、神戸大学で開催されていた「ヒューマン・コミュニティ創成研究センター開設記念シンポジウム」やら、niftyとココログ出版を行っているあさひ高速印刷へ行ったりしていた。シンポジウム中の分科会「数理科学と音楽の融合」では仕事?を一緒にしたことがある日本電子計算の方が講演の一部を担当されていたりして、「あぁ、世界(せかい)は狭い」と思った。そして、あさひ高速印刷でも「はてなダイアリーブック」を眺めながら、氏のはてなメンバーとの接点を伺ったり、「ハッカーと画家」の話などを伺うと、「世界は狭すぎるかも」とまた思った。しかし、すぐこんな風に考え直した。
確かに、「世界は狭い」かもしれない。なにしろ、「アメリカで、誰かが(自分の知り合いからスタートして)6人の人を介したら"=six apart"、アメリカ中の人が繋がっている」という実験があるくらいなのだから。日本だって、(日本の人口から、多く見積もっても)6人の人を介せば日本中の人と繋がっているわけなのだから。
しかし、そんな風にたった「6人という距離」で日本人が繋がっていることは「ハブ空港」のように非常に他の人との繋がりが多い人たちが存在しているから、である。そういう「ハブ的な人たち(多くの人に知られ、人を知っていて、人を繋ぐ人たち)」がいなければ、多くの人が近くで繋がったりはしないし、「世界が狭く」なったりしないのである。先の「世界は狭い」と感じさせた「日本電子計算の方」も「あさひ高速印刷の方」も「はてなの方々」も、おそらくそんな「ハブ的な人たち」なに違いない。だとすると、「世界が狭い」なんて風に驚く必要は無いように思える。
ところで、「数理科学と音楽の融合」の講演はジャンル的には大好きな話だったのだが、聴いていてちょっと辛くも感じた。おそらく「教授陣」の「世間が狭すぎる」せいだと思うのだが、(おそらく技術背景などの知識がないために)内容的に10〜20年以上は古い感じであった。(「狭い世間」で自分を育てなければならない)所属する学生さん達はちょっともったいないかも、と感じた。境界科学は「教授陣(時には上の人の真似をした学生自身の)の狭い世間」を理由とした、「閉ざされた社会の中で自己完結し、外にアウトプットが出ない」という病気にかかりやすいと感じることが多い。神戸大学のシンポジウムの場では、その典型的な症状を感じた。
「世界が狭い」と「世間が狭い」は180度違う。「狭い世界」を造り出すのは「知り合いが多いハブ的な人の存在」であり、「狭い世間」を造り出すのは、「周囲状況と繋がらず離れてしまっている人」である。「世界が狭い」は「広い世界」を引力が強い人がねじ曲げて色々な場所を繋げていた結果であり、「世間が狭い」は「広い世界」を知らず閉ざされている状況である。「世界が狭い」と「世間が狭い」は大違いなのだから、自分が考える「世界(というもの)」が、果たしてそれは「(自分の外に広がる広い)世界」なのかそれとも「(自分の周りの狭い)世間」なのかを問い直す作業が必要だと思う。
2007-12-05[n年前へ]
■「ヒューマンな星飛雄馬」と「プロ野球と草野球の球場の向き」
巨人の星の主人公、星飛雄馬の「飛雄馬」という名前は、「ヒューマン(human)」にかけたものだと、聞いた。 夕日を背にしたピッチャーが、バッターに力一杯球を投げる。 そして、そのスコアボードの向こうに輝く夕日を背景に滝のような涙を流しながら泣く。 感情豊かに泣き笑いする、星飛雄馬はまさにヒューマン、人間そのものに見える。 野球場という舞台で繰り広げられる「巨人の星」は、まさにヒューマン(人間)ドラマだ。
ところで、そんなヒューマンドラマで目にした、「夕日を背負ったピッチャー・スコアボードの上に輝く夕日」といった風景は、実際にはほとんどないという。 そんな配置の球場であれば、バッターボックスに立つバッターの視界に西日が入ってしまい、プレーに差し支えるから、だ。 だから、午後~夜に競技が行われることが多いプロ野球の球場では、西南方向にスコアボードが位置することは(ほとんど)ないらしい。 ということは、バッターからピッチャー方向へ線を引いたとき、西南西方向以外を向くように作ってあるということになる。
そんな話を読んだとき、ふと思ったのが「草野球用の球場」はどういう作り・配置になっているんだろう?ということだった。 プロ野球と違って、草野球は早朝~午前に行われることが多い、と聞いている。 だとしたら、草野球用の球場は、バッターからピッチャーへ向かうベクトルが東南東方向以外を指すように作ってあるのだろうか。 それとも、単にその場所の固有の条件に応じた向きで作ってあるのだろうか。
野球用スペースがある河原近くを通るたび、そんな疑問が頭の中をクルクル回り、時計の時針と球場と太陽の向きを考える。誰もいない野球場を眺め、太陽を見上げ、腕時計の針の向きに目がいく。
2008-03-17[n年前へ]
■みんな「ゆびピアノ ドレミくん」で遊んでる。
ふと気づくと、「ゆびピアノ ドレミくん」を色んな人たちが買っている。「ゆびピアノ ドレミくん」を手に入れて、みんな色んな遊び方をしている。
「ゆびピアノ ドレミくん」を駅前の本屋さんで、思わずキャッシャーに持って行き、そして、幸せそうにしている人がいる。パラレル・インターフェースでPCに繋ごうと考えて、「パラレルなんて、今時、そんなレガシーなI/F?を使うんですか?」と突っ込まれ、落ち込んでいる人もいれば、USBで「ゆびピアノ ドレミくん」をPCに繋ごうとしている人もいる。…と思えば、「今時モルフィー?やっぱり、標準ヒューマン・インターフェース・デバイスで繋ぐのがデフォルトでしょう?」と突っ込んでいる人もいる。
そんな風に、「ゆびピアノ ドレミくん」を色んな人たちが買っている。「ゆびピアノ ドレミくん」を指先につけ、思うままに色んなメロディを奏でたり、それぞれの電子工作をして楽しんだりしている。みんな「ゆびピアノ ドレミくん」で遊んでる(今日の演奏は「メリーさんの羊」)。
2011-01-28[n年前へ]
■「しゃべり過ぎの時代」と「ヒューマン」
現代は、しゃべり過ぎの時代である。書いたのは、twitterもない、何十年も前のことになる( 「男どき女どき 」)。そんな向田邦子のことを表現する久世光彦の言葉をいつも思い出す。
ぼくは向田邦子の一番いい時期とつき合っていたんだと思う。非常にいたずら好きのはずんだ時期で、嘘つきの時期、見栄っ張りの時期。そういうのがヒューマンだと思うから。
久世光彦
あの女らしさが好きなんです。 シナリオにしてもエッセイにしても隅から隅まで女なんです。人はよく(向田邦子を指して)女の優しさとか可愛らしさ、ちょっと悲しいユーモアとか暖かな賢さに溢れた人と言いますが、そんなことはありません。きっと、女の浅ましさとか嫌らしさ、逆上とか嫉妬、そんなものをちゃんと人並み以上に持ち歩いている人なのです。だから、一番女らしいと思うのです。
久世光彦