2011-04-24[n年前へ]
■雨が降るまで「雨ごいの踊り」を続けることができる人
「プロ論。—才能開花編 」のパパイヤ鈴木の言葉から。
できる人とできない人の区分けって、僕はないと思う。あるのは、やる人とやらない人だけです。
あるとき、「僕が雨ごいの踊りをやると100パーセント雨が降ります」という若者がいましてね。よくよく聞いてみると、雨が降るまで踊るからって(笑)。深いなぁ、いいなぁと思いましたね。
夢を見続ける力・続ける意志のことを“才能”と言うのなら、雨乞いの踊りを続けることができる人は、正真正銘、才能を枯らさずに明日を待つことができる人だ。
どんなにかすかで小さなことだとしても、「やる」には有限の時間がかかる。たとえそれが、一万分の一秒の一瞬だとしても、その瞬間に「やる=続ける」力が必要になる。やすやすと「やる=続ける」ことができるかどうかは、そのやり続けることへの「抵抗」がどれだけ「力」に対して無視できるかによる、ように思う。
だから、「続ける力(意志)」を持つことができることを“才能”と呼ぶのである。雨が降るまで雨ごいの踊りを続けることができる人、その雨を「成功」という言葉に置き換えたならば「成功するまで続けることができる人」…そんなことができる力のひとつが”才能”というものなのである。
ところで、なぜそんなことができる力の「ひとつ」と書いたかと言えば、そんなことができるようになるための力には色々な要因があるからです。たとえば、その他のひと」には「財力」なんていうものもあります。
だから、「才能あるものは勝つ可能性が増える、という法則」もあれば、「金持ち勝つの法則」もやはり有効であったりするのだろう。
2011-09-12[n年前へ]
■「1%の才能」と「99%の努力」
9月12日の「n年前へ」から。「1%の才能と99%の努力」という言葉を、さまざまな方向から眺めてみたくなる、こんな言葉。
…1%の才能と99%の努力から成る、といわれる。その、1%の才能こそが、99%の努力を支えるのであって、ベルモット抜きのドライマティーニがありえないように、ほんの微(かす)かな才能の香りすら見いだせなかったら、努力のきっかけもまた得られないではないか。1%が重要なのだ。
2012-02-05[n年前へ]
■「才能」と「孤独」
角田光代「これからはあるくのだ 」から。
私はもう才能なんて言葉を信じてはいない。ものごとに長けるということは、好きか、嫌いか、そのどちらかしかない。
「才能なんて」
不安も退屈も孤独とまるっきり関係がない。 郵便局と格安チケット屋くらい違う。
ではひとりの旅がまるっきり孤独とは無縁かというときっとそんなことはなくて、いわば、手に手を取り合って移動し続けている、そんな感じなんじゃないかと思う。ひとりでいるということ。それはときには興奮的で自由で、あまやかなことにもなりえる。
「孤独三種」
2012-06-20[n年前へ]
■「優秀さ」と「個性」
「自分の力と自分の個性」 from 「n年前へ」
「自分の力で生き残るためには、ずば抜けて優秀であるか、絶対に取替えの利かないユニークさか、そのどちらかが必要」
「もしかすると個性とかユニークさというものは、生活が満ち足りたついでに空しさを埋めるためにカルチャースクールで習うような余興ではなく、優秀さという必殺の武器を持たない者が生き延びるために最後にすがらざるを得ない、非常に厳しいものだったのかもしれない」
本流では生き残っていけない人が、どこか独特の場所で生き残っていこうとするなら、その位置に立ち続ける力がいる。その位置に価値があると信じ、その自分が立つ位置を高めていく力が必要だと思う。「盲目的にその場所に意味がある」と思うことが容易な「本流」とは違い、「その場所に意味がある」と素直には言えない場所を選ぼうとするなら…そんな粘り強さが必要だと思う。
幅広い心を 下らないアイデアを
軽く笑えるユーモアを 上手くやり抜く賢さを
大げさに言うのならば きっとそういうことなんだろう。
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