2009-02-27[n年前へ]
■「理解術」が「説明術」を支えている
わかりやすく物事を説明できる人の話を聞いていると、多くの場合、その人たちが私たちにわかりやすく話をすることができる理由に気づかされます。それは、その人自身の中で、話題・議論の中身について「十分に物事が整理されている」ということです。そして、その人自身の中で「わかりやすい話」として十分な理解ができている、ということです。
つまり、「説明術」の根本にあるのは「理解術」なのです。その人たちは、「(十分に理解した上で)わかりやすい話」を話しているから、「わかりやすく物事を説明できる」というわけです。
もちろん、100人の人がいれば、同じ1つのことにたいしても100人それぞれの「理解」があることでしょうから、わかりやすい説明をできる人たちは必ず、その人なりの十分な理解の上でのわかりやすさ、を持っています。
たとえば、「小説と物語の違い」を尋ねられたら、あなたならどう答えるでしょうか? 作家 江国香織は「彼女たちは小説を書く」の中でこんな風に、インタビュアに対して、わかりやすく、さらりとその答えを口にします。
小説というのは文章のものだと思うんです。だから、何が書いてあるかというよりも、どう書いてあるかという方が圧倒的に大事だし。「第一、書かれなくても(物語は)存在するでしょう?」と言われたら、「はい、そういえば、そうですね」と思わず頷き答えるしかない、と思う。そして、こんな説明をされたら、たとえば、「そうか、人は誰でも、60億人の人がいれば60億の物語があるけれど、けれど、(文章にされていない)それらは小説では確かにないんだな」と、私たちも「小説と物語の違い」について、少し理解することができるのです。
物語は何が起こるのかが大事だし、第一、書かれなくても(物語は)存在するでしょう?
「彼女たちは小説を書く」 p.185
ところで、「説明術」の根本にあるのは、あくまで「十分に理解した上でのわかりやすい話」です。「十分な」が重要です。「繋ぎ換え」「端折り」などで、一見わかりやすい話に思わせる・聞かせるものではない、ということも何より大事かもしれない、と思うのです。