2009-02-09[n年前へ]
■「”もし”と”もしも”の違い」で「もしも明日が」を論理的に読み解く
「もし」と「もしも」は、似ている言葉だけれど、違う言葉だ。たとえば、新明解国語辞典 (第3版 )の頁をめくってみると、一番目にあるのは「もし:将来起こりうることのひとつを取りあげて言うことを表す」というものだ。それに対し、「もしも」をひくと「もしも:”もし”を強めて言う言葉。特に起こってはならないことを予測して言う言葉(もしもの事(=万が一の事。特に死)」とある。確率的に考えれば、「もし」の方が「もしも」よりもずっと可能性が高い、という具合である。
そんなことをしていた時、それなら、わらべが歌った「もしも明日が 」(下に貼り付けた動画)の歌詞の話になった。
もしも明日が 晴れならば… もしも明日が 雨ならば… もしも明日が 風ならば… もしも季節が 変わったら…この歌詞を素直に聞くなら、明日が万が一にも「晴れ」でもなければ「雨」でもないし、「風が吹くこと」もない。明日は必ず、「風なく雪が降る日」や「曇り日」なのだろうか。また、それと同時に、この歌の中では季節も変わることがない、のである。
だから、この歌の歌詞を素直に感じ取っていくと、「明日という日はない」という暗い言葉に聞こえてくる。「明日」という日がなければ、それは晴れにも雨にも風にもなりようがないわけである。そして、もちろん、季節も変わることがないということになる。
「もし」と「もしも」の意味の違いを考えてみると、「もしも明日が」という曲がいかに暗く切なく哀しい曲であるかが見えてくるような気がする。
「もしも明日が」は実に怖い曲なのである。
2009-06-20[n年前へ]
2010-01-24[n年前へ]
2010-01-27[n年前へ]
■続:井の中の蛙(かわず)、大海を知らず (初出:2005年09月18日)
「井の中の蛙、大海を知らず」に続く言葉と言えば、前回の「しかし、空の蒼さを知る」という言葉の他に
井の中の蛙、大海を知らず
されど、空の高さを知る。
なんていうものもありました。「井の中の蛙」が知っていることが、井戸の底から見上げ眺める「空の蒼さ」でなく、「空の高さ」になっている一節です。この一節も、今の季節の秋空にとてもよく似合うような気がします。
そういえば、手元にある新明解国語辞典で「空」という言葉の意味を調べてみると、
(自分が立っている所と違って) 手の届かない、はるかに高い空間。
と書いてあります。 「手の届かない、はるかに高いところにある」ものが「空」である、というわけです。新明解国語辞典の「空の定義」を知った上で「井戸の中の蛙」に自分を重ねてみれば、「井の中の蛙は(自分が立っている所から)手が届かない、はるかに高い場所の遠さ(高さ)を知っているのだ」という文章は、なぜか心に響くような気がします。
新明解国語辞典いわく「両棲類の一種で、よく跳ね、よく泳ぐ」という「蛙」でさえ、いえ、だからこそ、(自分が住む)井戸の中から仰ぎ見る「(手が届かない遠くにある)空の高さ」を他の誰よりもよく知っているのかもしれない、とふと思うのです。
2010-06-12[n年前へ]
■ケンシロウ進数とURLエンコーディング
寝ている時に見る夢というのは、その夢を見ている本人にもよくわからないものだ。その夢の脚本を、誰が書いているのかはわからないが、夢の脚荒唐無稽さと飛躍の度合いにはいつも(起きてから)驚かされる。
今日見た夢は、WEBサービス提供会社内で、「ケンシロウ進数」の導入の是非を議論している、という不可思議なものだった。ケンシロウ進数のコンピュータ・アーキテクチャ面から議論し、そしてまた、ケンシロウ進数導入によりURLが長くなることのデメリットを受け入れるか否かについて、真剣に話し合っているのである。何とも、意味不明なストーリーだが、夢の中ではその奇妙奇天烈さに気付かないのが、これまた不思議な点である。
睡眠中に生活経験のごとく生起して目覚めると同時にはかなく消える、一種の幻覚。
新明解国語辞典 「夢」