hirax.net::Keywords::「ベクトル」のブログ



2007-07-14[n年前へ]

デッサン技術と画像処理プログラム  share on Tumblr 

 画像加工サービス "Imagination You Make"の中に含まれている「画像をイラストレーション風に加工するプログラム」は、割に時間をかけて作った。何しろ、Imagination You Make の1機能として、このイラストレーション化プログラムを作ったのではなく、イラストレーション化プログラム用のフロント・エンドとして、(Ruby on Railsの勉強がてら)Imagination You Makeを作ったのだった。Imagination You Makeが出力する解像度ではわからないが、イラストレーション加プログラムの出力はベクトル化処理もされていて、PostScriptとして出力を保存することもできたりする。…その後、Railsで動くサービス側に興味を惹かれたこともあって、「画像処理ジェネレータ・サービス」を作り出す"Imagenerator"を作ってみたりもしたけれど、やはり、本来の「画像をイラストレーション風に加工するプログラム」を作り直す作業は続けている。

 「画像をイラストレーション風に加工するプログラム」の画像処理アルゴリズムを作るために、さまざまな試行錯誤を繰り返した。それと同時に、デッサンやイラストレーションや油絵や似顔絵書きなど、絵画に関するテキストを結構読んだ。「イラストレーション風に加工する」するために、「イラストレーション」がどういうもので、どういう風にすれば描けるようになるかをたくさんのテキストから学ぼうとした。

 いろいろ実験してみて、普通 人物画や肖像画を描くときは、写真撮影ではないのですから、陰影とか明暗といったようなことは、あまり考えないでいいと気づきました。 安野光雅 「絵の教室」
 そういう絵画の教科書を読んでみた結果、試行錯誤の結果として作られた画像処理アルゴリズムが、デッサンやイラストのテキストに載っている「描き方」と瓜二つになっていることも多かった。これが、とても新鮮だった。処理アルゴリズムに正解なんてないだろうが、「そう悪くない答え」をプログラミングすることができたように感じ、楽しく気持ちの良い感覚だった。

2007-12-12[n年前へ]

「付加価値」と「ベクトル」と「スカラー」  share on Tumblr 

 「付加価値」という言葉が、少し不思議だった。"Added Value"という言葉だけを聞けば、それは、「足された値」という音として響く。それは、つまり、単なる「足された値」=「差分」という言葉として、頭の中に届く。

 しかし、それを「付加価値」という言葉として聞いた途端に、なぜか「グリコのおまけ」のように、「本来の目的とは違う、違うベクトルの何か」に思えてしまう。そんな「印象」は一体どこからくるのだろうか。

 そんなことを考えたとき、「付加」という言葉、「付け加える」という言葉の「付」という音に、「本来のベクトルとは違う向きのものを付ける」という意味を感じてしまうのかもしれない、と気づいた。さらに、「価値」という言葉に、私が「ベクトル」すなわち「方向(趣向)性=価値観」を感じている、ということにも気がついた。それは、私の中の"value"=「価値」は、値=スカラーではなく、何らかの「軸」を伴ったベクトルだ、ということである。決して単なる"value"=値、ではないようだ。

 「付加価値」という言葉を聞くときに、「本来の目的とは違う、違うベクトル」を感じる理由は、一つのことが原因というわけではないようだ。「付加」の「付」、単なる「値」ではない「価値」の部分、そんな色々が組み合わさって、"Added Value"ではない、"付加価値"を感じているような気がする。

2010-07-16[n年前へ]

人の心には「向き」がある  share on Tumblr 

 人の心には「向き」がある。向きをベクトルには方向がある。それを言い換えれば、ある座標(場所)から他の座標(場所)へと向かう量を定義するものだ。違う場所と違う二つの場所があって、重きを置く場所があって、そこから違う場所へと進もうとする「向き」がある、ということは面白いと思う。

 景色の良い場所で、遠くの青空と白い雲を見ながら、「生物と無生物」とか、「過去と未来」とか、とりとめのないことを話す。

 情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。

hirax.net::Keywords::「江國香織」のブログから。
 わかりやすく物事を説明できる人の話を聞いていると、多くの場合、その人たちが私たちにわかりやすく話をすることができる理由に気づかされます。それは、その人自身の中で、話題・議論の中身について「十分に物事が整理されている」ということです。そして、その人自身の中で「わかりやすい話」として十分な理解が必ずできている、ということです。つまり、「説明術」の根本にあるのは「理解術」なのです。

hirax.net::Keywords::「江國香織」のブログから。
 そういえば、「時間」というのものには、自然で必然な「ベクトル」があるのだったろうか・あるのだろうか?そんなことを、江國香織の言葉を反芻(はんすう)しながら、ふと思う。
 なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉のひとつひとつに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備(そな)わっている。双六(すごろく)風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

  たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像

2010-10-31[n年前へ]

「おバカなベクトル」と「ともだち」  share on Tumblr 

 先日、思いもしないところで、小学生の頃のともだちに再会することができた。電気屋に行くと、ようやく「マイコン」というものに出会うことができるようになった、そんな時代の遊びともだちだ。
 イケテナイわたしたちは、いつも、小学校の正門を過ぎてから、どれだけ地面に触らずにどれだけ遠くまで行くことができるか、とか、…何だかクダラナイことに時間を費やしていたような気がする。

 …「ある種のナイーブさ」と言い換えるならば、それは必要なものだと思う(Larry Wallの言うhubrisともはちょっと違うとは思うけど)。 2番目のエントリで挙げられてる「バカさ」「若気の至り」がたぶんそれで、「ものわかりの良さ」の反対側を向いたベクトル。


ナイーブさ
 ちょうどその頃、四半世紀振りの「中学三年生の同窓会」という案内が来たり、週刊女性のページに中学から高校・大学にかけてよく遊んでいたバンド仲間が出ていて、何だか時間の流れというものについて考えさせられたのだった。
 以前書いた「その場その場で面白そうな方向にふらふら進んだ方が良いタイプ」の人の場合は、一本道を極めるよりも、「いい歳をして」とか言われながらも次々と新しいことに手を出す方が、楽しい人生になるかもしれない (たとえ偉大な成果を残せなくとも)。それがはからずも、この種のナイーブさを失わない秘訣であるように思う。


ナイーブさ
 ギターを弾いていた人は、今では石井スポーツの登山用品専門店店長となって活躍しているようだ。夜行列車に乗って、男二人がペアルックで!!スキーに行っていた頃が幻のようだ。
 そして、テレビ局のスタジオで再会した小学校の頃によく遊んでいたともだちは、なにやら技術系の専門家になっているようだ。どちらも、何だかとても誇らしく人に話したくなる話だ。

 不思議なのは、この「誇らしく人に話したくなる」という部分だ。何だか奇妙なことに、その人たちの活躍を心から素直に宣伝したくなるような気持ち、自慢したくなるような気持ちがそこにはある。そんな人たちが周り数百メートルにいたことを自慢したくなる気持ちもたぶんあるのだろうと思うけれど、不思議なことに、「他」慢したくなる気持ちもあるような気がする。それが不思議でたまらない。もしかしたら、年をとりボケたせいで、自分のことと他人(ひと)の違いがわからなくなってしまっているのだろうか。

まっさらさらのアスファルト 描いた座標軸は、
ゆらゆら揺れる 胸のベクトル。

Pumps Race Song@「ベクトルの彼方で待ってて」
 あの頃、どんなベクトルを地面に落書きしていたのだろうか。…たぶん、それは「ゆらゆら揺れる 胸のベクトル」ではない、はずだ。

2014-04-10[n年前へ]

いつだって「背中にランドセルを背負った人生一年生」なヤツらこそ最高だ!  share on Tumblr 

 十年数年くらい前に、お世話になったライターさんが「三十代前半は気をつけないといけない年齢だから」と言っていた。その後色々あって、その言葉にとても感銘を受けた。とはいえ、その数年後には、そのお世話になったライターさんから「四十代も気をつけないといけない年齢だから」という言葉をありがたくも承り、人生いつまでも「大変な年齢」なんだなぁ…と苦笑とともに気づかされた。

 そのライターさんが教えてくれた他の名台詞に、「下ッパーず」というものがあった。底辺を形にしたような「シタッパ」の複数形である「三等兵」を表す言葉を聴きながら、とても感銘を受けた。…なぜかというと、私が尊敬していた人たちは、みんなそんな「下ッパーず」なベクトルを持つ人たちだったからだ。逆に言えば、手を動かさなくなって・成長しようと苦しくあがくことを止めてしまった瞬間に、何かしらの「年老い」を感じてしまったからだと思う。

 三十代や四十代で(もちろん20代でも、50代でも、60代でも同じことだ)成長しようと苦しくあがくことを止めてしまう人がいる。そういう人の気持ちもわからないでもないけれど、そんな人を尊敬できない気持ちがあるのも本当だ。いつだって「背中にランドセルを背負った人生一年生」なヤツらこそ最高だ!と思う気持ちは、捨てられない。



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