2009-02-07[n年前へ]
■阿修羅像と向田邦子
3月31日(火)〜6月7日(日)までの間、上野公園にある東京国立博物館 平成館で「国宝 阿修羅展」が開催される。どんな他の絵画展よりも、長い時間をかけて見てみたいと思っている。彫刻の技巧というものについて、私は全くわからない。だから、そこにあるものをただただ眺めてこようと思う。きっと眺める時間はとても長くなることだろうが、できれば、阿修羅像を見た後に、夕刻の上野公園をゆっくり散策してみたいと思っている。
阿修羅像は、当時、唐からもたらされた『金光明最勝王経』をもとにつくられたと考えられます。そこには、これまでの罪を懺悔して、釈に帰依することが説かれています。阿修羅の表情は静かに自分の心を見つめ懺悔する姿を表したものと考えられます。
一つの体に3つの顔と6本の手を持つ阿修羅像は、とても魅力的で底知れぬ魅力がある。そして、やはり奥深い複雑さを秘めつつも、なぜか不思議なくらい素朴に佇んでいるように見える。
また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。阿修羅像を見ると、あるいは、その後散策でもしていると、きっと向田邦子を思い起こすことだろう。
向田邦子に関する著作を読んでいく中で、向田邦子の色々な面をかいま見たような気になった。向田邦子が書いたこと、書かなかったこと、口にしたこと、口にしなかったこと、そんなものを、ほんのわずかだけれど、少しだけ感じられるようになった気がした。その中の大きなシンボルの一つが「阿修羅」だ。
”向田邦子シリーズ”は…内容は何も決まっていなかった。…そこで阿修羅が出てきた。これは奈良、興福寺の阿修羅像からきていた。阿修羅像は三面の美少年風の乾漆像である。怒り、嫉妬、争いなどを象徴していたが、向田は特に”怒り”の象徴として捉えた。…それで、和田(勉)にペンを握らせて「阿修羅のごとく」と書かせ、「うん、これでいいわ」と和田にいった。
小林竜雄 「向田邦子 恋のすべて 」
(向田邦子には)喜怒哀楽でいうと「怒」と「哀」はあると思う。しかし、本当の意味での「喜」と「楽」はなかった思います。
和田勉が「向田邦子をめぐる17の物語 」中で語ったこと
「阿修羅のごとく」が作られて行くなかで、緒方拳は続編への出演を拒否し、演出の和田勉は向田邦子と絶交するに至り、佐分利信は脚本読みの途中で脚本を拒否し帰ってしまったという。
何だか、それは、向田邦子が根本として矛盾と限界を抱え、その矛盾と限界を一つの収まる形に当てはめようとしようとする「阿修羅のごとく」の中では、自然と起きざるをえなかったことのようにも思える。
阿修羅像ではないが、三つの顔を持つ像というと、そして向田邦子というと、久世光彦が書いたこんな一節を思い出す。
今度はこのお寺の御住職がやってきた。…一日に三度、顔が変わるというのである。…いまは泣いているが、もうしばらくしたら怒りだす。そうして夜が明けると、何事もなかったように笑っている。だから、三変わり観音と言うらしい。
向田邦子という人についていろいろ書いてきて、いったい私はあの人のそんなに幾つもの顔を知っているのだろうかと、ふと考えてしまう。…多分、誰にも見せていた顔を、私も長い間ずっと見てきただけである。…そんなことから言えば、私などより特殊な人間関係、たとえばあの人に愛された人、憎みあった人、心配された人、可愛がられた人ーいくらもいるに違いない。あの人もそういう人の前では、激しく怒ったり、涙が出るくらい笑ったりしたはずである。
三変わり観音の三つの顔で言えば、(私は)笑い顔を知っているぐらいのもので、それだって心から笑った顔だったかどうか、よくは判らないのである。
(向田さんが一日の大半顔を合わせていた)それらの人の前で、あの人は結局のところ、泣きも笑いも怒りもできなかったのではないか。内心には百の表情でも足りないくらいの思いがありながら、たった三変わりさえもできなかったのではないか。…家族にさえ三変わりの顔を見せられなかったのが、もしかしたら、私にとっての向田邦子のすべてなのかもしれない。ということはーもしかしたら私は、これだけの紙数を費やして、あの人の不幸について書いてきたのかもしれない。
久世光彦 「触れもせで―向田邦子との二十年 」
観音様の顔は、本当に日に三度変わるのだろうか。…何とか暇を作って確かめに行ってみようと思う。その長い一日の間にやっぱりあの人のことを考えてしまうだろうな、と思うのである。
久世光彦 「触れもせで―向田邦子との二十年 」
向田邦子が口にしなかったものはいくつもある。そのひとつ、次は、向田邦子が頑なまでに口にしなかったという有吉佐和子について書いてみたい、と思う。
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