2009-09-26[n年前へ]
■「柳谷観音」と「話の舞台」
堀井憲一郎の「落語論 (講談社現代新書) 」を読んでいると、落語「景清」が登場していた。舞台となる清水観音と柳谷観音のうち、清水観音=修学旅行生が溢れる京都の清水寺の方は知らない人はいないだろうが、柳谷観音の方はそういうわけではない。関西ではそこそこ有名なのだとは思うが、他の有名寺社仏閣の山々に埋もれているように思う。
柳谷観音は、京都に近い長岡京市の山腹に位置している。竹林の丘や山を越え、急な峠道を上った先の山中にあるので、歩いて行くのも、自転車で行くのもかなりハードな場所である。何度か参拝した記憶はあるが、いつも車に乗って行った。地元の中高生などは、ランニングでこの辺りまで走りに来ることがあると聞いた時には、そして、実際にそんな学生たちを見た時は、思わず見とれてしまったくらいだ。10kmくらい山道を走るという学生たちの中に、自分がいなくて良かった…とつくづく思ったものである。
小説や落語の舞台、あるいは、ミステリや映画の舞台に行ってみるのは、とても面白い。そういった場所に行った後に、もう一度(その場所が登場する)本や映画を見ると、そういったストーリーがさらに身近に実感できる。「柳谷観音」に行けば、きっと「景清」をもっと楽しめるのだろうし、ナイル川に行けばクリスティをもっと楽しめるに違いない。
実際に行って、その場所の空気を吸った街には愛着が生まれ、親近感を覚えるものである。本を読むたび、その本に登場する町や場所の中に入って、少し暮らしてみたくなる。
2009-10-18[n年前へ]
■今わたしたちは、日本の歴史の、どのあたりを歩いているのだろう。
JRの駅を歩いていると、見慣れた景色が視界に入ったような気がした。その何かは、「そうだ京都、行こう。」のポスターだった。そこには、京都市近郊にある長岡京市の光明寺の景色があった。
2009年の秋。今わたしたちはこの景色を、春夏秋冬、さまざまな時間に眺めたような気がする。ある時は、近くの天下一品でこってりラーメンを食べた後の腹ごなしのために(少し距離のある)散歩に行く。また、ある時は、竹林の中で被写体にカメラのレンズを向ける。
日本の歴史の、どのあたりを歩いているのだろう。
「平家物語」でも有名な、一の谷の戦いで平敦盛の首を取った頼朝方随一の豪傑、熊谷直実。その慙愧の念と無常感から出家し、法然に師事。この地に念仏のための寺を開きました。
ちなみに、少し前に書いた柳谷観音は、長岡天神の駅をずっと山奥に上ったところにある。