■「こころ」の中の「どうして?」
漱石の中の謎とその終焉
考えてみると、www.hirax.netには夏目漱石が時々顔を出す。例えば、
などだ。もともと、夏目漱石は寺田寅彦・ロゲリギストといった物理学者の流れの源と言っても良いものだから、その影響を多々受けている私のWEB中に出てくるのは自然なのだろう。というわけで、今回こそは夏目漱石がメインの話である。漱石の「こころ」を「夏目漱石は温泉がお好き?- 文章構造を可視化するソフトをつくる - (1999.07.14)」「失楽園殺人事件の犯人を探せ- 文章構造可視化ソフトのバグを取れ - (1999.07.22) 」で作成した文章構造可視化ソフトWordFreqで解析してみるのだ。そして、「こころ」で繰り返し問われる謎がどのようにして終焉を迎えていったかを考察してみたい。いや、考察というほどのものではなく、考えてみたい、それだけだ。
何故、私がそういう気持ちになったかといえば、それは小山慶太著の「漱石とあたたかな科学」講談社学術文庫を読んだせいである。
今回のテキストである漱石の「こころ」は
- 青空文庫 ( http://www.aozora.gr.jp/)
言うまでも無いと思うが、「こころ」は学生である「私」と「先生」との間で進む物語である。「私」が先生と出会い、そして「先生」の物語が語られる。
それでは、「先生」と「私」の出現分布を可視化してみる。両者とも1100行辺りで大きく変化しているのがわかる。これは、ここから「下 先生と遺書」に入るからである。一人称である「私」は学生の「私」ではなく、「先生」である「私」になる。ここからは「先生」である「私」の物語になるのである。
また、冒頭をピークとして「先生」の出現頻度は単調に低下していく。学生である「私」から、先生である「私」への視点の移り変わりはもしかしたら冒頭から形作られているのかもしれない。
ところで、「こころ」は「どうして」という謎と「解らない」という答えの繰り返しである。それは、下のようにどうして(左)、解(右)の出現分布を見ればわかる。もちろん、「どうして」には「どうして...」も含まれれば、「どうしても」なども含まれる。また、「解」には「解らない、解る、誤解」などが含まれる。しかし、それらは大きく見れば実は同じようなものである、と思う。
どうして(左)、解(右)の出現分布がよく似ているのがわかると思う。「どうして」と問いと「わからない」という答えはいつも対になるのである。
これらとちょうど反対の分布を示すのが「死、卒業」というキーワードだ。
「どうして」(左)、「解」(右)という言葉が出現しない時には、「死」(左)、「卒業」(右)という言葉が現れるのである。また、この「死」(左)、「卒業」(右)という言葉が現れる時は、「先生」と「先生」である「私」があまり登場しない時でもある。学生である「私」から「先生」である「私」への過渡期であり、それは同時に「死」(左)、「卒業」(右)ということを浸透させる時期でもあるのだ。
結局、「どうして、解、死、卒業」は小説の最後において、同時に出現する。それらは最後に重なるのだ。それが答えなのか、あるいは答えがどこかに消えてしまったのか、どちらなのかはわからないままだ。