2008-04-03[n年前へ]
■「NHK連続テレビ小説」 と「11PM(EXテレビ)」
NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」が終わった。こんなにNHK連続テレビ小説を楽しみに・待ち遠しく観たのは、「ふたりっ子」以来だ。
NHK連続テレビ小説と言えば、東京制作と大阪制作が交互に行われているのが特徴の一つである。「ちりとてちん」は大阪制作の女性脚本家だったが、そういえば、「ふたりっ子」もやはり、大阪制作の女性脚本家という組み合わせだった。脚本が大石静だった「ふたりっ子」では、気の強い主人公と将棋の世界が魅力的だったし、脚本が藤本有紀の「ちりとてちん」は、いつでも弱気になりがちな主人公と、主人公を取り巻く人たち、そして落語の世界がとても魅力的だった。
そういえば、交互に「東京制作と大阪制作が交互に行われる」というと、「11PM(EXテレビ)」を思い出す。11PMは大橋巨泉(東京制作)と藤本義一(大阪制作)が交互に司会をする(もちろん内容の傾向もかなり違う)番組で、その後継番組だったEXテレビは、三宅雄二(東京制作)と上岡龍太郎(大阪制作)が交互に司会をする番組だった。どちらも、比べようもないくらいに大阪制作の方に、私はとても惹かれた。番組に詰まっている荒削りなアイデア・勢い、一見テキトーにも見える、けれど見るからに「その背景」へのこだわりと情熱を感じる(見せる)真摯な雰囲気がとても面白かった。
ひとつ、思うことがある。「ちりとてちん」にしろ、「ふたりっ子」でも、その結末をどこに置き、結末の先がどこに向かっているように見せるかは、脚本家自身が一番考えていることなのではないだろうか。
2010-05-06[n年前へ]
■上岡龍太郎と岡部まり
「探偵ナイトスクープ」の秘書役だった、岡部まりが参院選出馬のため、降板するという。
ずっと昔、20年以上前から、気になっていることがある。それは、初代の探偵局長の上岡龍太郎が、彼が忌み嫌った心霊・霊媒師・超能力・オカルトなどと、文化・信仰、あるいは、宗教をどのように分けて考えていたのだろう?ということだ。そして、「探偵ナイトスクープ」で心霊ネタの扱いに対して立腹し、鋭い言葉を放つ上岡龍太郎に対し、その横にいる岡部まりはどんなことを考えていたのだろうか?ということだ。その二人とを、私自身ずっと好きだったこともあり、ずっと気になっていた。
上岡:「霊がいる、いないということを何も解明せず、単にふざけたVTRを流しただけで、TVに出せば除霊師が認知されたと勘違いしてしまう。面白かったら良い訳ではない。面白くても、それによって何らかの影響力を与えてしまう。それを常々、考えないといかん」
岡部:「確かに仰る通りなんでね・・・」
探偵ナイトスクープ「オカルト嫌いによる騒動」
岡部まりには、彼女自身の考え方・信じるもの・信じる対象 があり、上岡龍太郎には、また別の考え方・感じ方・信じないものがある。この収録の瞬間に、特に、岡部まりが何を考え・何を感じていたかを、つねづね知りたいと思い続けてきた。
あの時、彼女はどんなことを考えていたのだろう。そして、今、彼女と彼はそれぞれどんなことを考えているのだろうか。
2010-05-07[n年前へ]
■上岡龍太郎の「理」と「情」
「探偵ナイトスクープ」から。
関西には、「探偵ナイトスクープ」という人気番組がある。(中略)'93年2月のある週の放送だった。事情があって道端に放置されている二宮尊徳の銅像があるのだが、それをきちんととしたところに再び置かれるようにしてもらいたい、との依頼が番組に送られてきたのである。
学校をいくつか回るのだが、どの学校にも断られる。トミーズ雅が不思議に思い、ある学校の校長に尋ねたところ、二宮尊徳は、「お国のため」というような思想が強制された戦前・戦時中の教育のシンボルであり、そのような悪用・悪影響の心配があるので、学校で引き取ることは出来ないのだ、と説明される。
結局、どの学校にも断られるのだが、大阪市内のある保育園が引き取ってくれることになる。じつはこの保育園には、すでに一体の二宮尊徳像があったのだが、もう一体置くということにしたわけだ。依頼者のおばあさんも大変喜び、これで一応番組的には「一見落着」という感じなのだが、ところがスタジオの場面に切り替わると、上岡局長が、「探偵」の行動に苦言を呈する。なぜ学校などの教育施設に置くことにこだわったのか。放置されて路傍に置かれているときでも、すでに賽銭のようなものが供えられていたという。それなら、商店街とか、個人の庭に置いてもらうという方法もあり、そうすれば、ずっとスムーズにいったのではないか。
上岡は、おそらく彼個人の考えと感覚にもとづいて、この番組の作られる方針、そして視聴者に訴えたであろう「情」の部分に疑いを示し、彼一流の口調で切り捨てたのである。
自分が信じる「理」にしたがって、テレビ的に作られる「情」を拒み断罪する。上岡龍太郎は、それが出来る芸人だった。おそらく上岡は、あの学校長の形式的な態度などは、もっとも嫌った人であろうが、そのことと、彼自身の考えや感覚にもとづいて何を信じるかということ、またテレビが強いてくる(大衆的と称されるような)「情」への安易な協力・同調を拒むこととは、また別のことがらだった、ということだろう。