2006-05-15[n年前へ]
■「おとなの小論文教室。」
私は「ほぼ日刊イトイ新聞」は読んでいない。単独の記事を、他からのリンクで読みに行くことはあるけれど、「ほぼ日刊イトイ新聞」を読みに行くことはない。レイアウトが読みにくい、ただそれだけの、けれど十分な理由があるからだ。レイアウトが読みにくいから読まないだけだから、書籍として読みやすく作り直されたものは、楽しんでいる。もしかしたら、書き手からしたら不十分な出来なのかもしれないが、それでもWEBサイトの読みにくさと比べれば雲泥の差だ。
昨日、山田ズーニー著「おとなの小論文教室。」を読んだ。これもまた、「いい」という感想は眺めつつも、WEBページ上では読む気にならず、これまで一度も読まなかったものだ。この本は本当に良かった。けれど、タイトルは、本当に良くない。少なくとも、この本のタイトルは、この本の内容の素晴らしさを表していない。私がこの本の中から読み取ったことは、「自分を見つけ出す」ということだ。
年齢によらず、「自分という一人称を主語にして、私は〜だ」と言うことができない人、自分が相手にしている若い人たちの中に「自分という一人称」が見えないと感じる人、そんな人は手に取ってみるといいと思う。本屋で手に取って読んでみるか、それができなければ、Amazonで買った方がいいと思う。この本のタイトルや「ほぼ日コラム」というキャッチフレーズだけで手に取る気を無くす人も多いだろうけれど、手に取った方がきっといいと思う。そうすれば、自分や他人を見つけ出し、それらを手に取ることもできるんだろう、と思う。
2008-04-28[n年前へ]
■「スペシャルな人が周囲から孤立しないために」
お金は世界に通用するものです。その通用するものの流れで見たとき、人と人がどうつながり、どこに人の共感が生まれ、自分の何に対してお金が支払われ、自分は食べていっているのか?それをクールに観察してみてください。
山田ズーニー「おとなの小論文教室」
2008-07-03[n年前へ]
■「痛みは一瞬。映画は永遠」
"Back To the Future"シリーズのメイキング・ビデオが結構面白かった。当時の技術で映像をどのように作っているか、ということも面白かったが、何より面白かったのが、マイケル.J.フォックスが語っていた話である。カンフー映画のジャッキー・チェンさながらに、転んだり・殴られたり・怪我したり……、とても痛いミステイクを数えきれないほど地検したマイケルは、監督ロバート・ゼメキスといつもこう言い合いながら、また次のテイクを再開したという。
痛みは一瞬。映画は永遠。この二人が語った「痛み」は、クロード・モネの「絵を描くことは難しく、苦しい。絵を描いていると希望を失ってしまう。それでも私は言いたいと思っていることをすべて言ってしまうまでは、少なくともそれを言おうと試みた上でなければ死にたくない」という言葉の、「苦しく・希望を失ってしまう」ということと、少し似ている。
あるいは、山田ズーニーが「おとなの小論文教室」書いていた「自分には紡ぎだせないものでも、それをイメージすることが人にはできる。それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないものだから、他人の水準のものでは納得できないものだからこそ、それを作ることに駆り立てられる。そして、自分が作らなければ「無い」ものだから、その過程で、時に絶望するのだろう」というような文章中の、「時に絶望する」という言葉とも似ている。
それがどんな形の痛みでも、そんな痛みを感じていても、結局は、何かに駆り立てられものを作りつづける人たちなのだ。
ものを作るのが好きな人たちは、ものを作り続けることが好きな人たちは、きっと「痛みは一瞬。映画は永遠」という言葉にうなづく部分があると思う。そして、実際には、その「映画」や「その人にとっての映画にあたるもの」は決して永遠ではなく、映画ができた瞬間を過ぎれば、またすぐに作り手も受け手も「次の映画」へと進んでいくということにもうなづくことだろう。そして、実は、それが結構好きなのではないかと思う。ものを作るのが好きな人たちは、ものを作り続けることが好きな人たちは。
たとえば、苦しい思いをして山に登る人が、その苦しさが癒えないうちに次の登山を夢想しているように、あるいは、上手く動かない・思ったような結果が出ないプログラムと格闘し、なんとか動いた一瞬の喜びを糧に、また次のプログラムを(少なくとも最初の内は)喜々として書き始めてしまうような人たちがいる。それが、ものを作るのが好きな人たちなのだろう、と思う。






