2011-01-09[n年前へ]
■「自己」と「周囲」を観察する機会
”各種文学がどのようにモノを描いているか”という視点から文学を眺め直す、斎藤美奈子「文学的商品学」の最終章「平成不況下の貧乏小説」から。モノ=目の前にあるさまざまなことを書くことや、自己を書くことの意味を宣言する最終段落で。
なお貧乏が「書くこと」に結びつく。これって不思議じゃないですか?明日のパンを心配する人が、原稿用紙やワープロに向かうだろうか。それは彼らが「最底辺の貧乏」ではない証拠ではないのか。
(松井計『ホームレス作家』の文章をひきつつ)極限の生活の中で、彼もまた「書くこと」を選ぶのです。書くことでも読むことでも、あらゆる知的な作業には、人間の尊厳を取り戻す力がある。そうなんです。残念ながら、ここは素直に認めなくてはなりません。人はパンのみに生きるにあらず、なのです。
ただし、書かれたものが人の心に訴えるかどうかはまた別の話しです。『ホームレス作家』が読む人の心を動かすとしたら、「事実の重み」ゆえではなく、「事実の抽出」に優れているからです。そして、優れた作品は、必ず「パンの描き方」に秀でています。なぜ「書くこと」で人は困難を乗り越えられるのか。感情をぶつけられるからではなく、冷静に客観的に事故と周囲を観察する機会になるからではないでしょうか。その意味でも、表層の表現はけっして枝葉末節ではないのです。
2012-02-29[n年前へ]
■「書き表す」ことの理由や原動力
ほぼ4年に1度、2月29日がやってきます。もう少し正確に書けば、4で割り切れ、かつ、「100で割り切れるけれど400では割り切れない年」でない、という年になると、2月29日がやってきます。…少しわかりにくい「決まりごと」ですから、100年に一回、あるいは、400年に一度くらいは、上手く動かないシステムもありそうです。
twitterなどに書かれるたくさんのつぶやきを眺めつつ、少し珍しい2月29日の「n年前へ」に書かれた、こんな言葉を思い起こします。
何かを人に知らせるために書くとか、何かを感じさせるために書こうと意識すると、そこでもうお説教になっちゃうような気がします。変な言い方ですけど、書く側っていうのは、これが届いてほしいとか、誰のためだとかは考えず、ただ書くために書いたほうがいいと思うんです。
川上弘美
web日記書きってのも自問自答凄そうな人達だよなー。闇を抱えているから人はwebで日記なんて書くんだ。
アクティブにいきたいねと思いつつ日記
限りない自問自答の数が、表現力の目安となると信じてやまない。
阪本順治
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2012-09-21[n年前へ]
■「演じる」こと「信じる」こと
イスラム圏で激しい反米運動を引き起こしている映画『イノセンス・オブ・ムスリム』 について、その映画に出た女優が書いた「ある女優の手紙」(訳者:Shiro Kawaiさん)
表現というものには大なり小なりあることだが、特に芝居を創る過程では、 人間が自分を守るために身につけたガードを捨てることを要求される。 それはまるで、 誰かが下で受け止めてくれることを期待して、目隠しして絶壁から飛び降りるような行為だ。 そのために、現場には絶対的な信頼が必要だ。脚本家を信じ、 演出を信じ、スタッフを信じ、他の役者を信じ、自分自身を信じる。 これが大前提だ。
訳者:Shiro Kawai
私は旧ソビエト連邦のグルジア共和国で育ちました。 ストライキ、反対運動、デモ、不正、残酷さ、暴力を見て育ちました。 ロシアとグルジアが戦争をしていた時に、そこにいました。 寝るときも外出着を着てバックパックを離さず、爆撃があったらすぐ逃げられるようにしていました。
Anna Gurji
私が役者の道を歩みたかったのは、別の人物へと変化する過程が好きだったから… それは利己的な理由だったのかもしれません。
Anna Gurji
そして、演じることにはより大きな意味があると気づいたのです。 演技を通して、我々役者は、様々な登場人物を現実のものとすることができます。 そして観客は、様々な人物を観ることで、そういう立場の人を理解し始めます。 理解すれば、受容することができます。 受容できれば、人々は手を取り合うことができます。
Anna Gurji
私が信じることとは正反対の主張に、私自身の姿が利用されるのは、耐えがたいことです。
Anna Gurji
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