2009-05-06[n年前へ]
■「人のために書くのがプロ、自分のために書くのがアマチュアだ」
斎藤美奈子「文章読本さん江 」から。
文章のプロとは名のある作家やエッセイストのことではない。出版業界では「ライターさん」などと呼ばれる職人的な「伝達の文章」の担い手たちである。文章の「プロ」とは「プロフェッショナル」ではなく「プロレタリアート」の略語と考えるべきなのだ。名もない雑誌の記事だって、新聞の折り込み広告の文章だって、だれかが書いているんだよ。
文章におけるプロとアマの差は、文章が上手か下手かではない。人のために書くのがプロ、自分のために書くのがアマチュアだ。
2009-11-09[n年前へ]
■罵倒的・批判的・懐疑的気分を抱きつつ上昇欲や絶望を飼いならす
高田里惠子「グロテスクな教養 (ちくま新書(539))」から。
斎藤美奈子は現在でも女性誌で得々と生き方やら恋愛やらを語るセレブたちを見ると、「正直、ケッってな気分にならないでもないけれど、情報自体は女性誌ならではのものもあって結構役に立つ」と言っているが、女性誌読者というのはたいてい、半分はそのように罵倒的・批判的・懐疑的気分を抱きつつ、半分は自分の上昇欲や絶望を飼いならしているのだろうと想像できる。
2010-03-09[n年前へ]
■「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない。
斎藤美奈子の「文章読本さん江 」から。
「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない。読む側になって考えてみれば、すぐにわかる。無難で上手なだけの文章なんか、これ以上、読みたい?私たちが求めているのは、常識をくつがえすような、新鮮な文章でしょう?
「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない、と書いてしまうと語弊があるかもしれない。「科学的に正しいこと」「興味深いこと・面白いこと」が両立する場合は、それほど稀(まれ)というわけでなく、あるからだ。たとえば、寺田寅彦の随筆などがそうだ。(科学的に)正しく、そして面白い。もちろん、寺田寅彦のような稀有な例を出してしまうと説得力が失せるかもしれないが、科学的ということに限れば「正しいこと」と「興味深いこと」はそう珍しくない、と言っても良いのではないだろうか。
ここで、斎藤美奈子が書く「正しいこと」というのは、そういう分野における「正しさ」ではない。それは、たとえば、ニュースを見てレポーターやキャスターが語る「正しいこと」や、それについて、さらに人が語る「正しい」こと、というようなものかもしれない。
少なくとも、私が読みたい文章は常識に沿った道徳本ではないことは確かである。
2011-01-09[n年前へ]
■「自己」と「周囲」を観察する機会
”各種文学がどのようにモノを描いているか”という視点から文学を眺め直す、斎藤美奈子「文学的商品学」の最終章「平成不況下の貧乏小説」から。モノ=目の前にあるさまざまなことを書くことや、自己を書くことの意味を宣言する最終段落で。
なお貧乏が「書くこと」に結びつく。これって不思議じゃないですか?明日のパンを心配する人が、原稿用紙やワープロに向かうだろうか。それは彼らが「最底辺の貧乏」ではない証拠ではないのか。
(松井計『ホームレス作家』の文章をひきつつ)極限の生活の中で、彼もまた「書くこと」を選ぶのです。書くことでも読むことでも、あらゆる知的な作業には、人間の尊厳を取り戻す力がある。そうなんです。残念ながら、ここは素直に認めなくてはなりません。人はパンのみに生きるにあらず、なのです。
ただし、書かれたものが人の心に訴えるかどうかはまた別の話しです。『ホームレス作家』が読む人の心を動かすとしたら、「事実の重み」ゆえではなく、「事実の抽出」に優れているからです。そして、優れた作品は、必ず「パンの描き方」に秀でています。なぜ「書くこと」で人は困難を乗り越えられるのか。感情をぶつけられるからではなく、冷静に客観的に事故と周囲を観察する機会になるからではないでしょうか。その意味でも、表層の表現はけっして枝葉末節ではないのです。
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