2009-09-19[n年前へ]
■「景気と文学」
関川夏央「おじさんはなぜ時代小説が好きか (ことばのために) 」の「景気と文学」から。
大正9年(1920年)3月15日に株式が大暴落して、第一次世界大戦景気による大正バブルが崩壊します。それで損をした人がたくさんいました。(中略)普通の人々が浮かれたという点では、昭和末から平成初年にかけてのバブル景気とおなじです。人の気持ちはかわりません。この文章が書かれてから、「バブル」と「バブル崩壊」のプロセスが、すでに繰り返されているように思います。「人の気持ちはかわりません」という言葉も、きっと何度も繰り返されてきたのだろう、とも思います。
夏目漱石の活躍期はその戦後不況とぴったり重なっています。(中略)いわゆるプロレタリア文学も昭和不況とともに盛んになるのです。漱石の文学が「不況文学」であるように、景気と文学の関係はもっと考えられてもよいと思います。
2010-01-16[n年前へ]
■寺田寅彦の文学的表現に流れる「重く喪失の感覚」
末延 芳晴「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者 」から。
寅彦の文学的表現の根底には深く、重く喪失の感覚が流れている。人間が人間として生きていくうえで、欠かすことのできない大切な何かが失われ、断ち切られている。
寺田寅彦に関する書籍は多い。しかし、昨年の末に出版された本書は、これまでに出版された寺田寅彦に関する書籍中でも、最も情報量が多く、そして奥深いものではなかろうか。
理系と文系と言う単純な1次元の世界は、多くの場合、誰もが一度は通り(語り)、そして誰もがいつか卒業する(飽きる)単純極まりない世界だと思う。・・・けれど、あえて書くならば、(そのひとつの道を選んだ)科学者が書く寺田寅彦評論とは一味違うものが、(やはり、そのひとつの道を選んだ)文学者が描いた本書には確かにあるように思う。
俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
寺田寅彦 「無題六十四」
2011-01-09[n年前へ]
■「自己」と「周囲」を観察する機会
”各種文学がどのようにモノを描いているか”という視点から文学を眺め直す、斎藤美奈子「文学的商品学」の最終章「平成不況下の貧乏小説」から。モノ=目の前にあるさまざまなことを書くことや、自己を書くことの意味を宣言する最終段落で。
なお貧乏が「書くこと」に結びつく。これって不思議じゃないですか?明日のパンを心配する人が、原稿用紙やワープロに向かうだろうか。それは彼らが「最底辺の貧乏」ではない証拠ではないのか。
(松井計『ホームレス作家』の文章をひきつつ)極限の生活の中で、彼もまた「書くこと」を選ぶのです。書くことでも読むことでも、あらゆる知的な作業には、人間の尊厳を取り戻す力がある。そうなんです。残念ながら、ここは素直に認めなくてはなりません。人はパンのみに生きるにあらず、なのです。
ただし、書かれたものが人の心に訴えるかどうかはまた別の話しです。『ホームレス作家』が読む人の心を動かすとしたら、「事実の重み」ゆえではなく、「事実の抽出」に優れているからです。そして、優れた作品は、必ず「パンの描き方」に秀でています。なぜ「書くこと」で人は困難を乗り越えられるのか。感情をぶつけられるからではなく、冷静に客観的に事故と周囲を観察する機会になるからではないでしょうか。その意味でも、表層の表現はけっして枝葉末節ではないのです。
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