2004-02-29[n年前へ]
■昨日眺めた燕温泉
温泉はやはり乳白色が気持ちいい、ということで燕温泉へ。道が途絶えたと思ったら、そこはもう小さなスキー場のリフト乗り場の横。そこ車を停めて、後はスノーモビル。
そんな昨日の「燕温泉へ向かう道」と「宿の近くから夕暮れに下を眺めてみた写真」
■yahoo! v.s. google
同じキーワードでyahoo!とgoogleを使って検索を行い、その結果をグラフィカルに相互比較するというyahoo! v.s. google。試しに、「幸せ」を検索した見るとこんな感じ。二軸の平面図でも眺めたくなるかも。from Going My Way
■闇を抱えているから人はwebで日記なんて書くんだ
何かを人に知らせるために書くとか、何かを感じさせるために書こうと意識すると、そこでもうお説教になっちゃうような気がします。変な言い方ですけど、書く側っていうのは、これが届いてほしいとか、誰のためだとかは考えず、ただ書くために書いたほうがいいと思うんです。川上弘美from BOOKアサヒコム。
「誰のためだとかは考えず、ただ書くために書く」という一節を読んで、それは「自問自答」するようなものなんだろうか、とふと考える。そういえば阪本順治は「限りない自問自答の数が、表現力の目安となると信じてやまない」と言っていたっけ、と思い出す。
そういえば、「web日記書きってのも自問自答凄そうな人達だよなー。闇を抱えているから人はwebで日記なんて書くんだ。」なんていう「アクティブにいきたいねと思いつつ日記」の一節も面白いかも。
2008-02-29[n年前へ]
■なんで関西弁の「松本くん」だけが特別なんだろう?
京都で過ごしていた頃、時折不思議に感じたのが「なんで松本くんだけが特別なんだろう?」ということだった。中本くんも、川本くんも、どんな「×本くん」もみんなアクセントはフラットであるか、あるいは、前の「中」や「川」にアクセントがついているように聞こえた。どの「×本くん」も、FlatかFalling なイントネーションであるように感じた。つまり、中川や「中」や「川」が強く、あるいはその音だけが高く、その後に続く「本」はそこにただ添えられるだけの音のように聞こえたように思う。
「松本くん、途中まで乗っけていくわ」
ウルフル・ケイスケ
けれど、なぜだか「松本くん」だけは違うように聞こえ、それがいつも不思議だった。関西弁の「松本くん」の「本(もと)」はとても強く・大きく、「松」という音の方はむしろ聞こえないくらい小さな音として耳元を通り過ぎるように聞こえた。「松本くん」をネイティブ風に言いたかったら「もとくん」と言った方がそれらしい、というくらいである。本当に、関西弁の「松本くん」だけが、特別なアクセントを持つ名前に聞こえたのだった。
『松本くんの曲もういいわ』って俺を捨てない限りは、俺はウルフルズで好きなことを最大限にやりたい。
トータス松本
さらに、色々聞いてみたわかったことが「松本くん」と「松本さん」のイントネーション・アクセントが違う、ということだった。「松本くん」のアクセントは「本」にあるけれど、「松本さん」のアクセントはフラットで、あえていうならアクセントは「さん」にある。(他の地域でもきっとあることのように)関西弁では、呼び手と呼ばれ手の関係で「くん」や「さん」という敬称が変わり、そしてそれだけでなく、名前自体のアクセント・イントネーションすら変わる。そんなルールが関西弁にはある。敬称だけでなく名前のアクセントすら変わる感覚が、確かにある。
そんな耳に染み付くアクセントやルール、そんなものを思い浮かべながら色んな言葉を聞くと良い、と思う。
「(ジョン・B・チョッパーからもサンコンJrからも)
僕は松本くんなんですよ」
トータス松本