2009-07-31[n年前へ]
■「広告」と「情報」の違い。
「スラムダンク」好きの人は、一度、読んでみると良いかもしれない。
ボクは高校大学時代、広告に強く憧れた。佐藤尚之「明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法 (アスキー新書 045) 」から。
消費者が検索した言葉に対応して、そこに消費者のニーズに近い一行広告を載せるもので、それはまさしく「その消費者のニーズに最適化されたコミニュケーション」である。
たとえばグーグルのアドワーズなどその典型である。
それは広告ではなく、単なるインフォメーションなのだ。相手の心を動かすことはできない。
広告とは相手の心を表現で動かすものでないといけない。
2009-09-20[n年前へ]
■「落語とは業の肯定である」
堀井憲一郎「落語論 (講談社現代新書) 」から。
立川談志は「落語とは業の肯定である」と言っていた。落語の本質をひとことで言い表している。つまり、「落語が表現しているのは、人間のおこないのすべてである」ということだ。人のおこないを論評せずに引き受ける。それが落語である。
2009-12-01[n年前へ]
■ ― 結局は、自分の持ち球を投げるしかない、ということです。
北村薫「北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書) 」から。
― 結局は、自分の持ち球を投げるしかない、ということです。
― 結局のところ、表現とは、≪どのような自分であるか≫を見せることです。
特に何か書きたいこと(ここで言うのは長文の話である)がない、という人も多いかもしれない。しかし、こんな言葉を北村薫の語り口で書かれると、あぁそうか、という心持にさせられる。
しかし、長く生きていると、書きたいことというのは、否応無しに出て来るものですよ。
2010-01-11[n年前へ]
■「言いたいこと」があるかどうかだ
北村薫「北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書) 」から
一言にいって、私は文章と言うものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分に言えているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。
小島信夫
2010-01-16[n年前へ]
■寺田寅彦の文学的表現に流れる「重く喪失の感覚」
末延 芳晴「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者 」から。
寅彦の文学的表現の根底には深く、重く喪失の感覚が流れている。人間が人間として生きていくうえで、欠かすことのできない大切な何かが失われ、断ち切られている。
寺田寅彦に関する書籍は多い。しかし、昨年の末に出版された本書は、これまでに出版された寺田寅彦に関する書籍中でも、最も情報量が多く、そして奥深いものではなかろうか。
理系と文系と言う単純な1次元の世界は、多くの場合、誰もが一度は通り(語り)、そして誰もがいつか卒業する(飽きる)単純極まりない世界だと思う。・・・けれど、あえて書くならば、(そのひとつの道を選んだ)科学者が書く寺田寅彦評論とは一味違うものが、(やはり、そのひとつの道を選んだ)文学者が描いた本書には確かにあるように思う。
俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
寺田寅彦 「無題六十四」
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