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2011-12-31[n年前へ]

「アンゴルモアの大王」と「大晦日」 

 1970年代にランドセルを背負っていたくらいの世代の人は、「世紀末」という言葉が当たり前のように体のどこかに染みこんでいました。 五島勉の「ノストラダムスの大予言」が本屋にずらりと並び、大ベストセラーになったからです。 だから、「1999年の7の月には、恐怖の大王がやってくる」という言葉が、その世代の人の頭のどこかには、信じる信じないはさておき、焼き付けられいてて、恐怖の大王がやってくる(かどうかはさておきも)「世紀末」という言葉を、頭のどこかで意識せざるをえなかったのです。

 1990年代のいつ頃だったか、スキー場で同行者が転び、軽い記憶喪失になりました。 記憶喪失になった連れは、オロンオロンと涙を流しつつ、色んなことを尋ねてきます。

「ここはどこ?」
 (見ればわかりそうだけど、スキー場…)
「今は冬?」
 (どう見ても冬にしか見えないよなぁ…)
「今は世紀末?」
 (…19世紀末って答えてみようかなぁ)
日時を確かめるために「今は世紀末か?」と訊くくらい、その世代には「世紀末」という言葉が強く頭の中にインプットされていたのです。

 そして、終末とか世紀末といった「終わり」をいつか迎える、という意識が体のどこかにありました。 そんな「終わり」をあまりに強く・過剰に意識した人たちは、その一部は、オウム真理教に入り、そして地下鉄でサリンを撒きました。 そこに至るまでの背景には、「ノストラダムスの大予言」などを象徴として形作られた「世紀末」「終末」という言葉があったのです。

 気づいてみれば、もう1999年の7の月も過ぎ、20世紀も終わってしまいました。 色んなことが起きつつも、21世紀の毎日が始まってから、今日でちょうど10年経ったことになります。 20歳になったら何かが終わる(何かが始まる)と考えていたはずが、とうにハタチなんて過ぎていたり、 20代最後の日を迎えてブルーになっていたはずが、29歳最後の日も30歳最初の日も全く何の違いもなかったり…と、アラサー・アラフォー多種多様な「終わり」と「始まり」を繰り返す毎日が続いているように思います。 いつも「何かが終わる」ことに焦ったり、それから逃げようとしたり、あるいは、立ち向かおうとしてボコボコになったりしつつ、 「20世紀」「十代」「二十代」「三十代」…そんなものたちの「終わり」と「始まり」が、いつだってずっと続いています。

 今日は、世紀末ならぬ年末の12月31日、大晦日。 バトンが「終わり」から「始まり」へと受け渡されていきます。 目の前に始まろうとしている2012年は、一体、どんな毎日なんでしょうね。

おもしろき、こともなき世を、おもしろく。
住みなすものは、 心なりけり



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