2009-01-14[n年前へ]
■「東大安田講堂事件」と「劇作家」
1968年に起きた「東大安田講堂事件」を読んで、ふと鴻上尚史の「ヘルメットをかぶった君に会いたい」 を連想した。答えがない問いを前にして、その問いを振り払うことができない感じというか、トイレに行ったはずなのに残尿感が強く残り続けている夢の中のような、そんな面持ちになった。
そして、さらに、井上ひさしが「死ぬのがこわくなくなる薬―エッセイ集〈8〉 (中公文庫)」に書いたこんな文章を思い起こした。
"わたしには"<現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか>という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を並べて繋げて結び合わせ、作家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むのがよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。
井上ひさし 「野田秀樹の三大技法」
もしかしたら、野田秀樹に限らずとも、ほとんどの作家が作るものは、そんなものが多いのではないだろうか。少なくとも、鴻上尚史が書く戯曲はまさにそのようなものだ。世界を映し出す舞台、そんな世界の中でどう生きるか、どう立ち続けるか、そんなことをずっと書き続けているように思う。・・・そういうものを書く劇作者は、たぶん、とても多い。
どうも作者というものは、自分のために薬を調合する人種のようである。
井上ひさし 「死ぬのがこわくなくなる薬」
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