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2012-01-11[n年前へ]

「逆に言えば」を使うのはどんなとき? 

 スラッシュドットでこんなコメントを読んで、なぜだか、少しの「ひっかかり」を覚えました。

 「逆に言えば」でちゃんと対偶を持ち出すあなたは結構頭がいい人ですね。大抵は数学的な「逆」や「裏」を持ち出す人が多いので。
 その「ひっかかり」を、自分の中でたぐって考えてみると、まずは「逆に言えば」を使うのはどんなときだろうか?という疑問に繋がっているようです。

 「逆に言えば」という言葉は「”見方”を”逆”にする・ひっくりかえしてみる」というものであって、「(論理学で用いられる)対偶」に相当する文を使うこともあるけれども、むしろ「視点・考え方・発想の転換」を含む(「対偶」というわけではない)文を伴う時こそが、「逆に言えば」が効果的に使われる状況じゃなかろうか…と感じます。そして、それは必ずしも「論理的」というわけでない日常会話中で使われることが多い言葉なのではないか、とも感じたのです。

 その「感じ」を、つまり、

 「(論理学で用いられる)対偶」に相当する文を使うこともあるけれども、むしろ「視点・考え方・発想の転換」を含む(「対偶」というわけではない)文を伴う時こそが、「逆に言えば」が効果的に使われる状況じゃなかろうか?
という「感じ」を整理するために、試しに、「食べた分以上にカロリーを消費すれば太らない」という言葉に続く「逆に言えば」の例を考えてみることにします。

 1番目は、「(論理学で用いられる)対偶」に相当する文が使われる例です。

 消費分より多くのカロリーを取ると、太ってしまう。逆に言えば、太らないということは、消費分より多いカロリーはとっていない、ということだ。
この言葉を聞くと「論理的で仰る通りでございますね…」と思いますが、眼からウロコ的な「転換」といったものは特に感じないのではないでしょうか。つまり、この「対偶」に相当する文例では「逆に言えば」というほどの「逆」感を与えないのです。

 それに対して、2番目のこの例ならどうでしょう。

 消費分より多くのカロリーを取ると、太ってしまう。しかし、逆に言えば、運動を十分するのであれば、いくら食べても良いということなのだ!
 この例では、「(論理学の)対偶」ではなく、むしろ「(論理学の)裏」を感じさせる”流れ”です。その結果、「消費分より多くのカロリーを取ると、太ってしまう」のが正しかったとしても、「運動を十分するのであれば、いくら食べても良い」ということにはならない状況も多々あることでしょう。
 しかし、前半部分の言葉を聞き「食べる量を制限しないとマズイかな…」という雰囲気を感じた相手に、「食べる量じゃないんだ!どれだけ運動するかなんだ!」と力一杯叫ぶ熱血体育会的な「視点・考え方・発想の転換」を感じさせるのではないかとも思います。

 論理的に正しい・正しくないではなく、「視点・考え方・発想の転換」があり、それが何らかの眼からウロコ的な気づきを与える言葉の前にこそ置かれるべきなのが、「逆に言えば」ではないか、と想像したのです。

 冒頭の「ひっかかり」は、こう言い換えても良いのかもしれません。

 演繹的に正しい言葉、論理的に100%正しい言葉を使うのは、果たして”頭がいい人”なんだろうか?
 「視点・考え方・発想の転換」を伴わなければ、進歩もないし・新しい何かが生まれることもないし・楽しくもないんのではなかろうか…というようなことを(非論理きわまりないアタマであるせいか)感じた…ということになります。



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