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2009-09-21[n年前へ]

教育費と茄子の花は千に一つも徒はない 

 スラッシュドットでのコメントから知った、西原理恵子の言葉(毎日新聞の元記事)。
 西原理恵子の言葉だけをひきたいところだけれども、文脈背景の紹介上、林真理子の言葉も引用する。

林真理子> 独身のお金持ちの友人が電話してきて「私たちが払った税金をヤンキー(不良)の子に使われるのは嫌だ。民主党は何を考えているのか」と言っていた。

西原理恵子> 子どもが大きくなって年金を払い、高齢者を養うんですよ。ヤンキーが将来刑務所に行けば、もっとお金がかかる。人を人とするためには教育と職業が必要。それは国家が何よりも先にやらなければならないこと。議員の給料払うなら、ヤンキーの教育費に使え。

 教育・職業といったことは、西原理恵子のマンガ中で語られるリフレインのひとつだ。たとえば、「営業ものがたり 」なら「うつくしい のはら」あるいは、「朝日のあたる家」といったマンガ中に、繰り返し登場する。あるいは、対談でも時折口にする。

私はまいにち字をならいに行く。
字をおぼえましょう。
字がよめたら 世の中がわかる。
商売ができる。ごはんが買える。

「うつくしい のはら」冒頭

 「親の意見と茄子の花は千に一つも徒はない」ということわざがあるが、教育費もそういうものかもしれない。…うーん、そんなこともないか。

 教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているものである。

アルベルト・アインシュタイン

2009-11-16[n年前へ]

「勝ち・負け」と「別視点」 

 「ユリイカ2009年10月号 特集=福本伸行 『アカギ』『カイジ』『最強伝説 黒沢』…賭けつづけるマンガ家 」が面白かった。西原理恵子特集の時も感じたが、本人が描くテキストとは別の第三者が解説する文章を読むと、色々な深読みの仕方・広がりというものが感じられて良いものだ。

 たとえば、これは「勝ち負けと、その先」という副題がつけられた、大槻ケンヂと福本伸行の対談で福本伸行が語る言葉である。

福本:例えばヨーロッパの紳士たちがカジノをするんですけど、それはギャンブルで負けたときでもいかに平静にふるまえるかという鍛錬でもあるんですね。これはさらに言うと・・・死ぬための練習にもなるんです。つまりん、人間がいずれ生物として必ず死ぬように、カジノでは必ず負ける時がくる。
福本:ギャンブルである以上は勝ち負けというのがあるんだけど、でも、そうしたなかで「勝ち負けは大切」ということと、「勝たなければならない」というのに差異があることは自覚的でないといけないと思いますね。
福本:どんなに力をつくしても負けることってどうしてもあるわけで、そうして生まれた結果だけを見て批難するのは明確におかしい。
 この場合は、マンガ家本人の言葉・解説ではあるが、自分が描くマンガのベースに流れているものを自己解説・批評している文章であり、福本伸行のマンガを読んだ後にこういった文章を読むと、さらに二度三度と繰り返し読み返したくなる。

 次の「未来は僕等の手の中」という題の川島章弘の文章だ。「THE BLUE HEARTS 」(ブルーハーツ)のバンド名そのままのファーストアルバムの冒頭一曲目「未来は僕等の手の中」を通じ、福本伸行のマンガを解説する。

 「賭博黙示録カイジ」第一話冒頭、断ち切りで画面いっぱいに書かれた文字、「未来は僕らの手の中」。カイジの物語はここから始まる。
 ブルーハーツは後に「↑THE HIGH-LOWS↓」に移行するが、カイジは作中でハイロウズのTシャツを着ている。福本がブルーハーツのファンであることは周知の事実である。
 おもにブルーハーツでは、強さ弱さを兼ね備えている場合が多い。
 「カイジ」は読んでいるけれど、こう解説されてみると、それは初めて気付かされることばかりだ。

 解説というものが好きだ。それは、過剰な深読みであることも多いし、解説者という翻訳者を通した「別物」であることもあるかもしれない。けれど、何らかの価値がプラスアルファされる限りにおいて、言い換えれば何らかの別視点・深みを感じさせてくれる限りにおいて、大元のテキストだけでなく、解説を読むことはとても楽しい。

未来は僕らの手の中
僕らは負けるために 生まれてきたわけじゃない

「未来は僕らの手の中」 真島昌利



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