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2011-04-28[n年前へ]

「進む」私たちが「できる」こと 

 小学校の教室に避難している人の後ろに、こどもたちが習字で書いた「進め」という紙がたくさん貼ってありました。教室にこどもたちがいた頃にすでに貼られていたはずの、こどもたちが墨汁で描いたはずの「進め」という言葉を眺めました。

 原発が事故を起こしてから、いわき市内の学校内で「水溜まりが乾いた跡などで20μSv/h以上の出力を線量計が出している」という実計測結果を聞いていました。そんな数字を知った上で、その後にどんな選択をしていくかという選択には、「答え」などないのだろうと思います。こどもたちに背負わせたくない「リスク」という名の厄難と、彼らにプレゼントしたい可能性と、それら「いずれも確実なものでないもの」を天秤にかけ・そのいずれかを選ぶということは、容易にはできないことに思えます。

 教室の後ろの壁に貼られていた習字のように、「進む」ことしかできない私たちは、適当なヒューリスティックス(曖昧な経験則)にもとづいて、行き当たりばったりの判断を(過去そうであったように)未来永劫し続けなければいけないのだろうと考えます。

 けれど、「進む」ことしかできない私たちでも、「簡単にできる・ささやかだけれど役に立つこと」があるのではないかとも考えます。根拠もあやふやなリスク見積もりでなく、より大きな要因を勘定に入れない精度が確かな計算でもない、「何か」がたくさんあるようにも思えます。

 たとえば、長い休み明けの校舎にたまった(放射能を帯びた)ホコリを、こどもたちが登校する前に、ダスキンモップを持った年老いた大人たちが掃除するなんていうことは、(たとえば、休み明けに雑巾を持ったこどもたちが溜まった埃を拭き掃除するということに比べれば)たいしたリスクを伴わずにこどもたちへの大きなリスクを避けることができる、伊東家の食卓的な役立つ「知恵」に思えます。

 「イソジンガーグルをそのまま飲むとお腹がもたれるから、ビタミンCを適量トッピングして中和させたものをこどもには飲ませた(笑)」と小名浜近くの人が軽く話すのを眺めながら、あぁこういう言葉こそが「知恵」というものなのだろうかと思わせれました。

「進む」ことしかできない私たちが(選択に悩むことなく)「できること」とは何だろうか、そのために必要な「知恵」というものは、一体どのようにすれば手に入るものなのだろうか?と考えます。その「答え」は、他の誰か(何か)が教えてくれるものではないということを、この春知ったような気がします。



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