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2010-01-04[n年前へ]

さまざまなことを為(な)していくのは、次の世代のあなた方である 

 「直木賞-選評の概要」をとても面白く読みました。何かに対する選評、あるいは、コメントというものは、コメントの書き手自身を忠実に描きだすものだ、と思いながら読みました。

 この回に受賞した北村薫の「鷺と雪」(リンク先は著者インタビュー)というより、「街の灯 (文春文庫)」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊は、かつて北村薫が書いた「六の宮の姫君」と同じように、論文であり・物語です。物語であると同時に論文でもあるということは、北村薫の器用さを証明すると同時に、それは、北村薫が持つ「(頭で考え・抑えてしまう)ある種の不自由さ」を示してしまうということでもあるのではないか、と私は思ってます。作家には誰しも、「(こういうこと・風には)書かない」と決めていることがあるものです。

 だから、渡辺淳一の「お話そのものも、頭で作り出された域を出ていない」という評、あるいは、宮城谷昌光の「優雅さの対称となる醜悪さが淡白すぎて、その時代がもっているぬきさしならない悪の形がみえてこない」という評は実にもっともな意見だろうと思います。

 ただし、私は、「街の灯 (文春文庫)」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊を、昭和初期の物語とだけ読むのは「間違い」であると、確信しています。これの小説群は、明らかに、過去と同時に現代を描いた話であると思っていますし、むしろ、現代の読者に対して投げかけられたメッセージ・物語だとしか読めないからです。

――最後まで読んで不思議に感じたのは、ベッキーさん(別宮さん)の諦念です。「いえ、別宮には何も出来ないのです」「何事も――お出来になるのは、お嬢様なのです」という最後のセリフがとても印象的でした。彼女の、この無力感の正体は何なのだろうと。

北村:  それは「時代」でしょう。時代を、回避できない。当初から彼女をスーパーレディとして設定してあるのは、その、最後のセリフを言わせたいからなんだよね。スーパーレディが、しかし「何も出来ないのです」と告げる。それは、様々なことを為していくのは、次の世代のあなた方であり、読者である、ということをやはり言いたいから。
 だから、渡辺淳一の「舞台となる昭和初期の雰囲気が描けていない」という言葉には違和感を感じます。これは、昭和初期という時代が舞台であるけれども、メッセージを伝えようとする相手は、あくまで21世紀初頭に生きる若い人たちだ、と思うからです。

 そういうわけで、この選評の概要では、宮部みゆきの評(他の)に一番納得しました。「最後まで読んで不思議に感じる」という人もいれば(インタビュアとして、わかっているからこそあえて聞き言葉にさせた、という可能性も高いと思いますが)、宮部みゆきのように「解る」という人もいるのです。

宮部みゆき 評: ずっと不思議に思っていました。…今回、『鷺と雪』を読んで、初めて解りました。別宮は〈未来の(主人公の)英子〉なのです。だからこそ、終盤で別宮が「別宮には何も出来ないのです」と語る言葉が、こんなにも重く、強く心に響くのです。
 この「別宮には何も出来ないのです」という言葉の後に続く、「何事もお出来になるのは、お嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです」という言葉は、作者が、今を生きる読者に投げた言葉以外の何物でもない。

 ちなみに、ラストシーンに対して、井上ひさしが言う「こんな安易な手」ということが、実際には現実に(たくさん)あったことだというのが、参考文献を読めばわかる歴史の不思議さ、です。



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