hirax.net::Keywords::「関内」のブログ



2011-11-21[n年前へ]

「日米修好通商条約で”関内”が開港地に選ばれた地形的な理由」と「”関所”の内側だから”関内”という理由」 

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関するニュースを聞いた時、約150年前の日米修好通商条約を思い出しました。そして、「日米修好通商条約」を連想した直後、さらに思い起こしたのが「日米修好通商条約を受けて、江戸幕府が横浜の関内を”開港地”として選んだ理由」です。

 東神奈川(神奈川宿)辺りの港でなく、関内の辺りを開港地として選ばれたのは、山に囲まれ東海道を通る人たちから、”外国”が見えないから。

地形図を見ながら考えた
 今の横浜港、関内の辺りは、つまりは一種の「出島」です。他の場所とは隔離されて、外からは見えない・見られない、そんな場所だったのです。

 「出島」に行き来するためには、もちろん「関所」を通らなければなりません。だから、「関所に囲まれた”内側”を指して”関内”と呼ばれることになりました。そして、当時は、その外側が”関外”と呼ばれていた、というわけです。横浜の山下公園の「港」に続く「関内」の街の名前は、「関所の内側」から来ていたのでした。

 海と運河と川に囲まれた横浜に入るために…橋が架けられました…幕府はこの橋の畔に関所を設けました…これより内側の”横浜区域”は”関内”とよばれ…

神奈川宿と横浜

  地形図を見ると「なるほど!」と納得できる「歴史(過去の判断と結果の積み重ね)」があったり、「歴史」や「地理」を知ることで自然に納得できる「名前(地名)」もあったりするのです。

twitter から

2012-11-24[n年前へ]

横浜「関内」を(かつて日本国内=関外と隔ていた)関所跡に行ってみた。 

 『横浜「関内」を(かつて日本国内=関外と隔ていた)関所跡に行ってみた。』を書きました。

 約150年前の頃には、この橋の海側には世界へと続く道があり、山側には江戸から明治そして大正へと進む日本が広がっていました。今日は、横浜関内と日本国内=関外とを隔ていた関所跡に行ってみました。

横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。横浜「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみた。








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