■「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ)
遠い彼方に見る陽炎
夕焼、小焼の、山の空
負われて見たのは、まぼろしか。
…
夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
とまってゐるよ、竿の先
三木露風 「赤蜻蛉」 樫の実
負われて見たのは、まぼろしか。
…
夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
とまってゐるよ、竿の先
三木露風 「赤蜻蛉」 樫の実
先日、はてなに寄せられていた検索の一つにとても興味を惹かれるものがあった。それは
夕焼けこやけの「こやけ」、仲良しこよしの「こよし」の意味を教えて下さい
という何とも素朴に響く質問だった。年を経た三木露風が北海道のトラピスト修道院で少年の頃を思い出しながら作ったという、童謡「赤とんぼ」はとても有名だから知らない人はいないだろうが、言われてみればその「赤とんぼ」の冒頭の「夕焼けこやけ」の「こやけ」とは確かに一体何を意味していたのだろう?そこで、興味をそそられながら、その質問への回答を眺めてみると、
語調を整えるための(特に強い意味はない)接頭語ではないか
という答えに続いて 夕日が沈んで暗くなった後に10~15分すると、もう一回赤く明るく光る「夕焼け」が見える。これを「小焼け」というそうだ
という回答が返されていた。「小焼け」というものが一般的に通用する言葉なのかどうかは判らないが、それでも具体的に説得力のある説明に聞こえる。この説明のとおり、「夕焼けこやけ」の「こやけ」が日暮れ後にもう一度光るという夕焼けであるとするならば、その夕日が沈んで暗くなった後に「10~15分すると」「もう一回赤く明るく光る」という「小焼け」というのはどんな夕焼けなのだろうか。この「小焼け」の不思議なところは、「日没後に10~15分するともう一回赤く明るく光る」という「現象の不連続性」である。日没後にだんだんと光が強まるのでも薄まるのでもなく、まるでフラッシュバックのように不連続的に「10~15分するともう一回明るく光る」というのはとても不思議に思われる。何らかの「境界」がないことには、そんな風にパタンと何かがひっくり返されるように不連続な現象が起きるとは思えない。
そこで、こんな風に推理してみた。「小焼け」というのは、日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が、私たちの頭上に浮かぶ雲を下側から照らし赤く光らせているさまを指しているのではないだろうか?地上に立つ私たちから見るとすでに日も沈んでしまった後に、だけど私たちの頭上高くに浮かんでいる雲からはまだ夕日が見えるような時に、その雲が下側から照らされて夕日の赤い光を私たちに向け反射させているさまを「小焼け」というのではないだろうか?そしてまた、夕日は太陽の角度が低ければ低いほど大気中を通過する光路長が長くなりきれいに赤くなるし、それに加えて太陽の角度が低ければ低いほど太陽光が雲に当たる角度が深くなるため雲の下側に当たる光の量が多くなる。だから、雲の高さから見た日没の時に雲の下側が一番強く赤く照らされることになり、その直前のことを「小焼け」というのではないだろうか?
こんな推理にしたがって、簡単な計算をしてみることにした。秋の空に浮かぶ雲といいえばひつじ雲やいわし雲といった高積雲である。それらの雲の高度は私たちの頭上7~10kmといったところだろうか。その雲から見た日没というのは地上の私たちから見た日没からどの程度後になるだろう?ざっと計算をすると、その結果は雲の高度が7kmのときに約11分後、雲の高度が10kmのときに約13分後になる。私たちの頭上でなくてもう少し西の空に浮かぶ雲であればそれよりは若干遅くはなるけれど、それでも数分の違いも生まれるわけではない。つまり、私たちが日没を見た十数分後に、空に浮かんでいる雲の下側に一番強く夕日の光が差し込み、雲の下面が私たちに向かって赤く輝くことになる。
そういうわけで、「小焼け」というのが「日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が頭上の雲を下側から照らし赤く光らせているさま」だと仮定してみると、ちょうどその現象が起きるのが私たちから見た日没後十数分後であることから、
夕日が沈んで暗くなった後に10~15分すると、もう一回赤く明るく光る
という現象を上手く説明できることがわかる。「夕焼け小焼け」の「小焼け」は、夕日が私たちから見ると地平線の彼方に沈んでしまって見えなくなった後に、それでも私たちの頭上高くに浮かぶ雲を幻のように照らしている現象だと考えると上手く説明がつくのである。そういえば、三木露風が最初に発表した「赤蜻蛉」の詩は「夕焼け小焼けのあかとんぼ」ではなくて「夕焼け小やけの山の空」だった。だから、三木露風が夕暮れに「見たのはまぼろしだったか」と呟いたのは元来は「赤とんぼ」ではなく「夕焼け小焼けの山の空」で、そんな風に呟くとおり、地平線の向こうの夕日を頭上の雲を鏡にして見るという、「小焼け」はまさに蜃気楼か陽炎のような現象だと考えてみるのはとても自然で、そして興味深いことだと思う。
なぜなら、後年に「赤とんぼ」と改名したけれど、三木露風がこの詩につけた題名は「赤蜻蛉」であるからだ。詩の中では「赤とんぼ」とひらがなを使っているにも関わらず、とんぼの古名に由来する蜻蛉(とんぼ)の古名を、その漢字のとおり「蜻蛉(かげろう)」をこの詩に名にわざわざ使っているからである。つまり三木露風はこの詩を「赤とんぼ=赤い陽炎(かげろう)」と名付けたのである。地平線の向こうに隠れた夕日(太陽)が炎のように燃え上がるちょうど陽炎のような「夕焼け小焼け」意味する題をこの詩に名付けているからである。
そういえば、三木露風は三十三才の時、北海道で夕日の中を飛ぶ赤蜻蛉(アキアカネ)を見ながら、子供の頃を思い出しつつこの詩を作ったという。きっと、蜻蛉(かげろう)が飛ぶ夕焼けの景色を眺めながら、陽炎(かげろう)のように浮かぶ小焼けの向こうに昔をまぼろしのように思い出していたに違いない。
秋の夕暮れに日が沈んだ後の美しい夕焼けを眺めていると、地平線の彼方に沈んだ太陽が炎のように雲に浮かび上がる「小焼け」の様子を眺めていると、色んな幻が地平線や水平線の彼方に浮かびあがってくるような気がする。三木露風が眺めたように
、昔眺めた景色がどうしても陽炎のようにふと浮かび上がってくるような気がする。雲の下が赤く照らされる様子を眺めながら、そんないつか見た景色を少し眺めてしまうのである。