1999-06-27[n年前へ]
■影絵
確かなものはただ一つ
淀川の河川敷で夏の日暮れた頃に撮影した写真である。写真の二人はどんな人達だろうか。写真の中に何を見るかは人によって違うのだろう。
「写真」は言うまでも無く"Photography"の訳語である。Photo(光)-graphy(画)、すなわち、光による画である。そのままである。しかし、日本人は写真と訳した。「真を写すもの」である。しかし、「写す」は外見的なものを描くときに用いられ、内面的なものをも描くときには違う「うつす(漢字が登録されていないので出せない)」が使われる。だから正確に言えば、「写真->真実の(内面までは描けないが)外見を描こうとしたもの」である。外見のみを写し取った、それはまるで影絵である。そして、光画と写真のどちらがふさわしいか、というようなことはここでは考えない。
Photographyは元はPhoto(光)-gram(メッセージ)であるから、「光のメッセージ」である。立体物を記録することのできるホログラム(Hologram)はHolo(完全な)-gram(メッセージ)である。「完全なるメッセージ」だ。その写真版はホログラフィーHolographyであり、Holo(完全な)-graphy(画像)である。
「見ればわかる」とは言うが、物事はそう単純ではない。必ず、見えていない側面は存在するし、考え忘れていることもあるはずだ。結局、何が真実であるかは決められるものではない。それでも、真実に近づこうとし続ける姿勢が大切なのだと思う。
2002-11-17[n年前へ]
■沼津港で見た景色
昨日、LUMIX FZ-1を買った。どうしてこの機種を選んだかというと、少し気分を変えてみたかったのである。これまで使っていたNikon775(入院中)を選んだ理由が「小さくて広角アダプターがつくこと」ということだった。だから、今回は「小さくて望遠に強いこと」という風に選んでみたのである。とはいえ、もちろん基本的に私は広角の写真が好きなので、LUMIX FZ-1にも広角アダプターを付けることになるだろう。とりあえず、右の写真はLUMIX FZ-1の広角端で撮った写真で、沼津港の市場から水平線を眺めながら撮った。
そして、左の写真は今度はLUMIX FZ-1の望遠端で撮った写真だ。光学12倍ズームというのはなかなか迫力がある。右の広角端の写真と比べて、その違いが判るだろうか(全然違う写真だけれども)。
しかも、寒い中で手が震えがちで、風が吹いてて、しかも曇り気味で夕日が沈む間際という暗い中にも関わらず、光学手振れ補正のおかげでブレにくかったのもなかなかに良い感じだった。
それにしても、何百回と眺めても、やはり海の近くで眺める青い空はとても綺麗だ。右の写真のような、もうすぐ日暮れという時の深い青とゴールドの空も、日が落ちる瞬間の赤い風景も、日が沈んだ後の藍色の空もどれも本当に綺麗だ。気分はもう、老後の散歩をしている夕暮れ、なのである。
右の写真は、沼津港の市場から外の海を眺めてみた。市場の屋根と柱がまるで写真のフィルムのフレームのように景色を切り取っている感じがとても不思議で天然の展覧会が開催されているみたいだ。不思議な景色だ。
2003-09-22[n年前へ]
■「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ)
遠い彼方に見る陽炎
負われて見たのは、まぼろしか。
…
夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
とまってゐるよ、竿の先
三木露風 「赤蜻蛉」 樫の実
先日、はてなに寄せられていた検索の一つにとても興味を惹かれるものがあった。それは
そこで、興味をそそられながら、その質問への回答を眺めてみると、
この「小焼け」の不思議なところは、「日没後に10~15分するともう一回赤く明るく光る」という「現象の不連続性」である。日没後にだんだんと光が強まるのでも薄まるのでもなく、まるでフラッシュバックのように不連続的に「10~15分するともう一回明るく光る」というのはとても不思議に思われる。何らかの「境界」がないことには、そんな風にパタンと何かがひっくり返されるように不連続な現象が起きるとは思えない。
そこで、こんな風に推理してみた。「小焼け」というのは、日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が、私たちの頭上に浮かぶ雲を下側から照らし赤く光らせているさまを指しているのではないだろうか?地上に立つ私たちから見るとすでに日も沈んでしまった後に、だけど私たちの頭上高くに浮かんでいる雲からはまだ夕日が見えるような時に、その雲が下側から照らされて夕日の赤い光を私たちに向け反射させているさまを「小焼け」というのではないだろうか?そしてまた、夕日は太陽の角度が低ければ低いほど大気中を通過する光路長が長くなりきれいに赤くなるし、それに加えて太陽の角度が低ければ低いほど太陽光が雲に当たる角度が深くなるため雲の下側に当たる光の量が多くなる。だから、雲の高さから見た日没の時に雲の下側が一番強く赤く照らされることになり、その直前のことを「小焼け」というのではないだろうか?
こんな推理にしたがって、簡単な計算をしてみることにした。秋の空に浮かぶ雲といいえばひつじ雲やいわし雲といった高積雲である。それらの雲の高度は私たちの頭上7~10kmといったところだろうか。その雲から見た日没というのは地上の私たちから見た日没からどの程度後になるだろう?ざっと計算をすると、その結果は雲の高度が7kmのときに約11分後、雲の高度が10kmのときに約13分後になる。私たちの頭上でなくてもう少し西の空に浮かぶ雲であればそれよりは若干遅くはなるけれど、それでも数分の違いも生まれるわけではない。つまり、私たちが日没を見た十数分後に、空に浮かんでいる雲の下側に一番強く夕日の光が差し込み、雲の下面が私たちに向かって赤く輝くことになる。
そういうわけで、「小焼け」というのが「日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が頭上の雲を下側から照らし赤く光らせているさま」だと仮定してみると、ちょうどその現象が起きるのが私たちから見た日没後十数分後であることから、
そういえば、三木露風が最初に発表した「赤蜻蛉」の詩は「夕焼け小焼けのあかとんぼ」ではなくて「夕焼け小やけの山の空」だった。だから、三木露風が夕暮れに「見たのはまぼろしだったか」と呟いたのは元来は「赤とんぼ」ではなく「夕焼け小焼けの山の空」で、そんな風に呟くとおり、地平線の向こうの夕日を頭上の雲を鏡にして見るという、「小焼け」はまさに蜃気楼か陽炎のような現象だと考えてみるのはとても自然で、そして興味深いことだと思う。
なぜなら、後年に「赤とんぼ」と改名したけれど、三木露風がこの詩につけた題名は「赤蜻蛉」であるからだ。詩の中では「赤とんぼ」とひらがなを使っているにも関わらず、とんぼの古名に由来する蜻蛉(とんぼ)の古名を、その漢字のとおり「蜻蛉(かげろう)」をこの詩に名にわざわざ使っているからである。つまり三木露風はこの詩を「赤とんぼ=赤い陽炎(かげろう)」と名付けたのである。地平線の向こうに隠れた夕日(太陽)が炎のように燃え上がるちょうど陽炎のような「夕焼け小焼け」意味する題をこの詩に名付けているからである。
そういえば、三木露風は三十三才の時、北海道で夕日の中を飛ぶ赤蜻蛉(アキアカネ)を見ながら、子供の頃を思い出しつつこの詩を作ったという。きっと、蜻蛉(かげろう)が飛ぶ夕焼けの景色を眺めながら、陽炎(かげろう)のように浮かぶ小焼けの向こうに昔をまぼろしのように思い出していたに違いない。
秋の夕暮れに日が沈んだ後の美しい夕焼けを眺めていると、地平線の彼方に沈んだ太陽が炎のように雲に浮かび上がる「小焼け」の様子を眺めていると、色んな幻が地平線や水平線の彼方に浮かびあがってくるような気がする。三木露風が眺めたように
、昔眺めた景色がどうしても陽炎のようにふと浮かび上がってくるような気がする。雲の下が赤く照らされる様子を眺めながら、そんないつか見た景色を少し眺めてしまうのである。
2003-12-31[n年前へ]
■「一日」「新年」が始まる瞬間
『「ヨチヨチ歩き」は1秒遅く、「つま先立ち」で0.05秒早く』です。忙しい師走も日暮れと共に終わり、明日の夜明けで新年を迎えることになります。初日の出を迎える前に、一日の始まりを自由自在に変えるテクニックを知っておけば、結構楽しいかもしれません。
あるいは、忙しい毎日を過ごしていて、いつも時間に追われているようであれば、やっぱりそんなテクニックを覚えておけばきっと損はないと思います。 …特に得することもないかもしれませんが。
■「一日」「新年」が始まる瞬間
「ヨチヨチ歩き」は1秒遅く、「つま先立ち」で0.05秒早く
最近、一日がとても短いような気がする。正確に言うと、一日が短いというよりは、夜の時間に比べて昼の時間が短いように感じる。ふと気づくと日が暮れていて、いつの間にか夜になっているような気がする。遙か昔の小学生の頃は昼の時間がとても長かったような気がするけれど、最近では昼の時間がとても短いように感じる。そして、昼の時間が短いだけではなくて、そもそも「時間」自体がとても短いような気がする。一年なんかあっという間に過ぎて、すぐに次の年がやってくるような気にさえなる。
江戸時代などであれば、普通の人々は日の出を「一日」の始まりとみなしていた。日の出とともに「一日」が始まり、そして「初日の出」とともに「新年」が始まると捉えられていた。だから、その感じ方に沿って言うならば、最近は刻々と日が昇るスピードが速くなっているような気がする。
そんな、日の出と共に始まる「一日」や「新年」であるけれど、「一日」や「新年」というものは誰にでも同じように始まるものだろうか? …もちろん、そんなことはあるわけがない。東京にいる人とニューヨークにいる人では日の出の時間は大きく異なる。それでは言い方を変えて、例えばほとんど同じ場所にいる人、例えば同じ場所で並んで日の出を眺めるような場合であれば、「日の出」=「一日の始まり」はほとんど同じように訪れるものだろうか?
もちろん、並んで日の出を眺めてみても、身長が違ったりすれば視点の高さが違うわけで、(単純な丸い地球を例に考えるだけでも)日の出の時間は当然その人の身長ごとに違うことになるに違いない。それでは、その「新しい一日が始まる時刻のズレ」「新しい一年は始まる時刻のズレ」というものは、一体どのくらい人それぞれ違っているものなのだろうか?
例えば、ヨチヨチ歩きをし始めるような一歳児であれば、平均的な身長は70cm程度だろう。そして、大人の女性であれば平均身長は160cm程度で、大人の男性であれば平均身長は170cm程度である。すると、それぞれの視点の高さは、60cm,150cm,160cm程になるだろうか。 こんな身長の人達が、元旦に東京(標高30m北緯35.41度)で初日の出を眺める時に、(もしも視界を遮る山が仮に無いとしたならば)それぞれの視点の高さからの日の出の時間のズレを算出してみると、次のようになる。
まず、身長170cmの(例えば)お父さんが160cmの高さの視点から日の出を眺める。その0.1秒後、日の出を眺めたお父さんが思わず感嘆の声をだし始める瞬間に、身長160cmの(例えば)お母さんの目からも昇ってきた朝日が見えるようになる。そして、お母さんが日の出を眺めてから少し時間が経って0.9秒ほど経った頃に、両親と手をつないで立っている一歳児の子供の顔にも太陽の光が差しこむようになる。0.1秒とか0.9秒という時間はとても短いほんの一瞬にも思えるし、意外に長い時間のズレにも思える。同じ場所にいる人には同じように差し始めるように思える日の出であっても人それぞれに結構違う時間であったりするのは面白いと思う。同じように(江戸時代のとらえ方で)始まるように思える一日や一年であっても、身長ごとに一秒近い時間のズレが存在するのである。ヨチヨチ歩きの子供は大人よりも約1秒遅く一日や一年が始まるし、身長170cmの人には身長160cmの人よりも0.1秒早く昼間がスタートするのである。
ところで、ヨチヨチ歩きの一歳児にとっては、元日の日の出は大人より1秒遅く差し込み、その一方で日の暮れは1秒早く訪れる。ということは、日の出から日暮れまでの時間=日が差している時間を考えれば、大人よりも2秒短いということになる。小学生の頃の方が昼の時間は長かったような気がする- と思ったわけだけれども、子供から比べれば実は大人の方が2秒ほども昼の時間は長かったのである。
そしてまた、もしも身長160cmの人がつま先立ちをして精一杯の背伸びをすれば視点が5cmくらい上に上がって、その結果として日の出は0.05秒ほど早く訪れる。そうすれば、一日は0.05(秒)* 2≒0.1(秒)というわけで、日が差している昼の時間が0.1秒長くなることになる。逆に、日の出と日暮れ時にちょっと座って休んでみれば昼の時間が1秒ほども短くなる。こんな風に、私たちは秒単位で昼間の時間を長くしたり短くしたりすることができるのである。
だから、毎日が忙しくて時間が経つのがとても速く感じるときには、例えば高めのハイヒールを履いて、日暮れを0.1秒遅くしてみたり、…あるいは、なんだか疲れて一日がとても長く感じるときには、ベンチに腰掛けて日暮れを少しだけ早めてみるのも楽しいかもしれない。そんなテクニックを使わないにしても、こんな時間を操作するテクニックを知っていれば、日の出や日暮れが楽しく感じられるかもしれないし。