2002-10-30[n年前へ]
■掌の上のハワイ・ハナウマ湾
ともゆきさんが撮影したハワイ・ハナウマ湾のパノラマ写真を私が「掌の上の水晶玉の世界」にしてみたもの。「ブルーハワイ」を掌で転がして、水平線の向こうに指を伸ばしてみることができる。あの水平線の向こうには何があるのかな。背伸びをしたら、何かが見えてくるかな?掌の上で転がしてみれば、水平線の向こうはもしかしたら見えてくるのかな?
少なくとも、ハワイの海は見えてくるのだった。(リンク)
2002-11-17[n年前へ]
■沼津港で見た景色
昨日、LUMIX FZ-1を買った。どうしてこの機種を選んだかというと、少し気分を変えてみたかったのである。これまで使っていたNikon775(入院中)を選んだ理由が「小さくて広角アダプターがつくこと」ということだった。だから、今回は「小さくて望遠に強いこと」という風に選んでみたのである。とはいえ、もちろん基本的に私は広角の写真が好きなので、LUMIX FZ-1にも広角アダプターを付けることになるだろう。とりあえず、右の写真はLUMIX FZ-1の広角端で撮った写真で、沼津港の市場から水平線を眺めながら撮った。
そして、左の写真は今度はLUMIX FZ-1の望遠端で撮った写真だ。光学12倍ズームというのはなかなか迫力がある。右の広角端の写真と比べて、その違いが判るだろうか(全然違う写真だけれども)。
しかも、寒い中で手が震えがちで、風が吹いてて、しかも曇り気味で夕日が沈む間際という暗い中にも関わらず、光学手振れ補正のおかげでブレにくかったのもなかなかに良い感じだった。
それにしても、何百回と眺めても、やはり海の近くで眺める青い空はとても綺麗だ。右の写真のような、もうすぐ日暮れという時の深い青とゴールドの空も、日が落ちる瞬間の赤い風景も、日が沈んだ後の藍色の空もどれも本当に綺麗だ。気分はもう、老後の散歩をしている夕暮れ、なのである。
右の写真は、沼津港の市場から外の海を眺めてみた。市場の屋根と柱がまるで写真のフィルムのフレームのように景色を切り取っている感じがとても不思議で天然の展覧会が開催されているみたいだ。不思議な景色だ。
2003-06-22[n年前へ]
2003-09-22[n年前へ]
■「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ)
遠い彼方に見る陽炎
負われて見たのは、まぼろしか。
…
夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
とまってゐるよ、竿の先
三木露風 「赤蜻蛉」 樫の実
先日、はてなに寄せられていた検索の一つにとても興味を惹かれるものがあった。それは
そこで、興味をそそられながら、その質問への回答を眺めてみると、
この「小焼け」の不思議なところは、「日没後に10~15分するともう一回赤く明るく光る」という「現象の不連続性」である。日没後にだんだんと光が強まるのでも薄まるのでもなく、まるでフラッシュバックのように不連続的に「10~15分するともう一回明るく光る」というのはとても不思議に思われる。何らかの「境界」がないことには、そんな風にパタンと何かがひっくり返されるように不連続な現象が起きるとは思えない。
そこで、こんな風に推理してみた。「小焼け」というのは、日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が、私たちの頭上に浮かぶ雲を下側から照らし赤く光らせているさまを指しているのではないだろうか?地上に立つ私たちから見るとすでに日も沈んでしまった後に、だけど私たちの頭上高くに浮かんでいる雲からはまだ夕日が見えるような時に、その雲が下側から照らされて夕日の赤い光を私たちに向け反射させているさまを「小焼け」というのではないだろうか?そしてまた、夕日は太陽の角度が低ければ低いほど大気中を通過する光路長が長くなりきれいに赤くなるし、それに加えて太陽の角度が低ければ低いほど太陽光が雲に当たる角度が深くなるため雲の下側に当たる光の量が多くなる。だから、雲の高さから見た日没の時に雲の下側が一番強く赤く照らされることになり、その直前のことを「小焼け」というのではないだろうか?
こんな推理にしたがって、簡単な計算をしてみることにした。秋の空に浮かぶ雲といいえばひつじ雲やいわし雲といった高積雲である。それらの雲の高度は私たちの頭上7~10kmといったところだろうか。その雲から見た日没というのは地上の私たちから見た日没からどの程度後になるだろう?ざっと計算をすると、その結果は雲の高度が7kmのときに約11分後、雲の高度が10kmのときに約13分後になる。私たちの頭上でなくてもう少し西の空に浮かぶ雲であればそれよりは若干遅くはなるけれど、それでも数分の違いも生まれるわけではない。つまり、私たちが日没を見た十数分後に、空に浮かんでいる雲の下側に一番強く夕日の光が差し込み、雲の下面が私たちに向かって赤く輝くことになる。
そういうわけで、「小焼け」というのが「日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が頭上の雲を下側から照らし赤く光らせているさま」だと仮定してみると、ちょうどその現象が起きるのが私たちから見た日没後十数分後であることから、
そういえば、三木露風が最初に発表した「赤蜻蛉」の詩は「夕焼け小焼けのあかとんぼ」ではなくて「夕焼け小やけの山の空」だった。だから、三木露風が夕暮れに「見たのはまぼろしだったか」と呟いたのは元来は「赤とんぼ」ではなく「夕焼け小焼けの山の空」で、そんな風に呟くとおり、地平線の向こうの夕日を頭上の雲を鏡にして見るという、「小焼け」はまさに蜃気楼か陽炎のような現象だと考えてみるのはとても自然で、そして興味深いことだと思う。
なぜなら、後年に「赤とんぼ」と改名したけれど、三木露風がこの詩につけた題名は「赤蜻蛉」であるからだ。詩の中では「赤とんぼ」とひらがなを使っているにも関わらず、とんぼの古名に由来する蜻蛉(とんぼ)の古名を、その漢字のとおり「蜻蛉(かげろう)」をこの詩に名にわざわざ使っているからである。つまり三木露風はこの詩を「赤とんぼ=赤い陽炎(かげろう)」と名付けたのである。地平線の向こうに隠れた夕日(太陽)が炎のように燃え上がるちょうど陽炎のような「夕焼け小焼け」意味する題をこの詩に名付けているからである。
そういえば、三木露風は三十三才の時、北海道で夕日の中を飛ぶ赤蜻蛉(アキアカネ)を見ながら、子供の頃を思い出しつつこの詩を作ったという。きっと、蜻蛉(かげろう)が飛ぶ夕焼けの景色を眺めながら、陽炎(かげろう)のように浮かぶ小焼けの向こうに昔をまぼろしのように思い出していたに違いない。
秋の夕暮れに日が沈んだ後の美しい夕焼けを眺めていると、地平線の彼方に沈んだ太陽が炎のように雲に浮かび上がる「小焼け」の様子を眺めていると、色んな幻が地平線や水平線の彼方に浮かびあがってくるような気がする。三木露風が眺めたように
、昔眺めた景色がどうしても陽炎のようにふと浮かび上がってくるような気がする。雲の下が赤く照らされる様子を眺めながら、そんないつか見た景色を少し眺めてしまうのである。
2015-06-01[n年前へ]
■オランダのクレラー・ミュラー美術館に行く途中の高原で「オランダ風景画の水平線位置」を確かめてみた。
オランダ風景画で印象的な「画面を広く占める空」の不思議?で書いたように、オランダ風景画で空が占める比率は異常に高い。けれど、実際にひたすら平地が続く彼の地で地平線を眺めてみると、風景画に描かれた地平線の位置は確かに合っている。…ということが、実感できる「仕掛け」が、オランダ・ヘルダーラント州の高原地帯に位置するクレラー・ミュラー美術館(Kröller Müller Museum)に行く途中、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園にありました。
オランダ風景画を見るたび、そこに描かれている「遙か遠くまで広がる空」が印象的だった。たとえば、オランダ風景画でGoogle画像検索すると、キャンバスの2/3くらいの広さに青い空と横方向に延びる白い雲が描かれていて、その景色がとても印象的だ。それは、たとえば、日本の油絵風景画でGoogle画像検索してみた結果と比べると、その違いがよくわかる。日本の風景画では空はキャンバスの上部1/4程度を占めるに過ぎない。
高原に備え付けられた「額」を覗いてみると、自分の視線の高さと”ほぼ”等しい高さに広がる地平線の高さが、オランダ風景画を描く基本のレイアウトに一致していて、何だかそれが面白く感じます。