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2010-01-26[n年前へ]

井の中の蛙(かわず)、大海を知らず  (初出:2005年09月17日) 

 浜辺に行くと、白い雲も少なくなって、完全に秋空になっていました。広い海と青い空を眺めていると、こんな一節が心に浮かびます。

井の中の蛙、大海を知らず   
しかし、空の蒼さを知る

 これは、誰かが荘子「秋水編」の有名な一節に「しかし、空の蒼さを知る」という一節を付け足したものだといいます。

 井戸の中からでは、頭上に空いた丸い穴を通して、蒼い空が見えるだけです。そんな世界が限られた井戸の中からだからこそ、「空の蒼さ」を誰よりも知ることだってできることもあるのかもしれません。空しか見ることのできない井の中の蛙だからこそ、憧憬とともにその「空の蒼さ」を心に刻むことだってあるかもしれない、と思います。

 そういえば、4歳の頃から6年間ほど、私は長野の野辺山高原に住んでいました。その後、野辺山高原から東京へ引っ越してから、「空が蒼くないこと」と「水道の水が冷たくないこと」に驚いた記憶があります。私がそれまで知っていた「空の色」は濃い藍色(リンク先はPDF)だったのですが、東京へ越してから見る空は「水色」でしたので、とても驚いたのでした。

 長野の(少なくとも当時は)山奥で都会もろくに知らず、まさに「井の中の蛙」だったわけですが、先の詩の通り「空の蒼さ」は知っていたというわけです。

 時折、自分がいる狭い世界でなく広い世界を眺めてみたい、という気持ちになることもあります。「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉が頭に浮かぶことがあります。そんな時、同時に「しかし、空の蒼さを知る」という言葉も心に浮かびます。

 あなたなら、「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉をどんな時に思い浮かべるでしょう?そして、その言葉に「どんな一言」を続けてみたくなるでしょうか?

2010-06-25[n年前へ]

考ええるどんな競争にも、最も確実に勝つ方法を提供してくれるのは科学である。 

 「ものごころがついた」のが5歳くらいで、その前の記憶は写真アルバムの中の景色としてか理解していない。だから、森本雅樹「宇宙経由 野辺山の旅 」に書かれているような、そんな頃の物語を読むと、何だか不思議な心地になる。そして、6歳くらいからの記憶、野辺山高原の天文観測所の中で暮らし・小さな分校に通っていた頃の記憶をほんのかすかに思い出す。藍色の空、太陽に顔を向ける朱色のパラボラアンテナ群、そして、クラス全部で11人が机を並べた木製の教室。

 しかし、前述のように、せまい範囲に限った場合、科学がすくなくとも最良の判断を与えてくれるのもたしかである。ひとまず考ええるどんな競争にも、最も確実に勝つ方法を提供してくれるのは科学である。
 夏が過ぎ、秋が訪れる頃、この言葉をふと思い出すのだろう。ふと、そんなことを考える。

2015-06-01[n年前へ]

オランダのクレラー・ミュラー美術館に行く途中の高原で「オランダ風景画の水平線位置」を確かめてみた。 

オランダ風景画で印象的な「画面を広く占める空」の不思議?で書いたように、オランダ風景画で空が占める比率は異常に高い。けれど、実際にひたすら平地が続く彼の地で地平線を眺めてみると、風景画に描かれた地平線の位置は確かに合っている。…ということが、実感できる「仕掛け」が、オランダ・ヘルダーラント州の高原地帯に位置するクレラー・ミュラー美術館(Kröller Müller Museum)に行く途中、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園にありました。

 オランダ風景画を見るたび、そこに描かれている「遙か遠くまで広がる空」が印象的だった。たとえば、オランダ風景画でGoogle画像検索すると、キャンバスの2/3くらいの広さに青い空と横方向に延びる白い雲が描かれていて、その景色がとても印象的だ。それは、たとえば、日本の油絵風景画でGoogle画像検索してみた結果と比べると、その違いがよくわかる。日本の風景画では空はキャンバスの上部1/4程度を占めるに過ぎない。

 高原に備え付けられた「額」を覗いてみると、自分の視線の高さと”ほぼ”等しい高さに広がる地平線の高さが、オランダ風景画を描く基本のレイアウトに一致していて、何だかそれが面白く感じます。

オランダのクレラー・ミュラー美術館に行く途中の高原で「オランダ風景画の水平線位置」を確かめてみた 








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