2007-07-19[n年前へ]
■自分らしさと世界の何処かのアイスクリーム
from n年前へ.
現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています。 「コピーの時代」
おー、よう来たのぅワレまあ上がって行かんかいワレ 久しぶりやんけーワレ何しとったんどーワレ 「河内のオッサンの唄」
自信に満ちあふれているときには、「自分が生み出した結果」を書きたいと思いこそすれ、「自分のやり方」について書きたい、なんてこれっぽっちも思いません。 自分の中に、自分の立ち位置に対する「心の強さ」が十分にあれば、「(他)人は(他)人、自分は自分」とだけ鼻歌交じりに他人を眺めていたりします。
何処かでちょっと切なげなリフレインが聞こえた。聞き取れたのは「きっといつか溶けてなくなるアイスクリーム…」というところだけ。 だけど、世界の何処かにはきっとあるはず、と思ったらやっぱりあった。ぶらり旅の行く先はトルコにしようかな。「雲ひとつ無い青い空、不思議な景色、そしてアイスクリーム」だけを見に行くのも良いかも。
他の人の自信を支えるやり方を聞くと元気をもらえます。真似をしたいと思います。 元気な時に自分のやり方をメモしておいて、不安になった時にはそのメモを読んで自分のやり方を思い出しています。
違う時間の自分=「他人」に向かって、そんな助ける言葉を書いておくのも良さそうですね。私も早速真似してみようと思います。
「今回は、読者の範囲はかなり狭まり、読者数は減ると思いますが、狙った人にきちんと届くことを考えましょう」
2007-11-18[n年前へ]
■風が強い日
同じような景色や似たような景色、同じようなことや似たようなこと、そんなことを眺め・読み返すことができるように、記事に付けられたタグの重複度から関連する記事を5つほど見つけ、表示する機能を付けました。
何百回眺めても、海の近くで眺める青い空はとても綺麗だ。もうすぐ日が暮れる時間に現れる深い青とゴールドの空も、日が落ちる瞬間の赤い風景も、日が沈んだ後の藍色の空もどれも本当に綺麗だ。
「景色」とは「直接には関わりの無い、余裕の有る傍観者の立場からする言葉」だと新明解は言う。けれど、そうじゃないような気も少しする。よくわからないけれど、そう思う。
2007-11-19[n年前へ]
■冬前の暖かい日
冬と秋の間の暖かい日。葉の向こうに見える青い空は、きっと何千年もの前の今日と同じ色の空。
「だってそうでしょう?箱は開けてみなきゃ、中身はわからない。電話は出てみなきゃ、相手はわからない… 少なくとも、旧式の電話はね」 「人の心だってそうよ。こうして…」 「- ノックしてみないと、わからないの」
2009-08-26[n年前へ]
■「赤い救急車」と「青い空」
空をただ見上げると、その綺麗さに見とれることが多い。だからといって、忙しい毎日の中では、空をただ見上げ続け。見とれ続けるということはないのが普通だ。
以前、救急車に乗った。あの時、ストレッチャー(担架)から瞬間的に見上げた青空は、とても綺麗に透き通っていた。
そういえば、救急車から担架に乗って出た瞬間、目の前の青空が綺麗だなぁ、と思ったことは覚えている。そして、その瞬間に頭の中でブルーハーツの「青空」が流れたのはいいけれど、それは「バス」じゃなくて「救急車」だし、「運転手さん」じゃなくて「救急隊員さん」だし・・・
昨日、また救急車に乗った。額から出る血を押さえながら、歩道で上を見上げて倒れている間に見た空は、ほんの少しだけ茜色が混じり、夕方の訪れを感じさせてとても綺麗だった。そして、「真っ赤な(消防車風)救急車」が来てから、ストレッチャーの上で首や頭、そして体中を固定される間に見上げ続けた空は本当に美しかった。頭も首も動かせないのだから、視界の中には青い空にしかない。青空を、ただただ眺め続ける時間は、こういう時にしか手に入らないのかもしれない。
今日の再確認できたことは、「車に轢かれそうになった時は、車のボンネットの上に乗り上げれば、衝突のショックが大幅に減る」ということだった。そして、できるなら、「受け身」もきちんとするべきだ(そうそうできるわけもないが)ということである。それにしても、ボンネットがある車で良かった。これが「バス」だったりしたら・・・考えるだけでも恐ろしい。
運転手さん そのバスに僕も乗っけてくれないか
行き先なら どこでもいいまぶしいほど 青い空の真下で
THE BLUE HEARTS 「青空」
というわけで、手足が生えた歩く”白い”マスクメロンとなっている。道路に横たわる影だけを見るならば、まるでモヒカン男かチョンマゲ侍が歩いているようだ。実に情けない格好だ。