2010-06-25[n年前へ]
■考ええるどんな競争にも、最も確実に勝つ方法を提供してくれるのは科学である。
「ものごころがついた」のが5歳くらいで、その前の記憶は写真アルバムの中の景色としてか理解していない。だから、森本雅樹「宇宙経由 野辺山の旅 」に書かれているような、そんな頃の物語を読むと、何だか不思議な心地になる。そして、6歳くらいからの記憶、野辺山高原の天文観測所の中で暮らし・小さな分校に通っていた頃の記憶をほんのかすかに思い出す。藍色の空、太陽に顔を向ける朱色のパラボラアンテナ群、そして、クラス全部で11人が机を並べた木製の教室。
しかし、前述のように、せまい範囲に限った場合、科学がすくなくとも最良の判断を与えてくれるのもたしかである。ひとまず考ええるどんな競争にも、最も確実に勝つ方法を提供してくれるのは科学である。夏が過ぎ、秋が訪れる頃、この言葉をふと思い出すのだろう。ふと、そんなことを考える。
2010-09-03[n年前へ]
■非科学的イコールケシカラン式の科学万能
森本雅樹 「宇宙経由 野辺山の旅 」のあとがきから。
なるほど、科学は、そして人智は、昔からの人間の活動で次々に可能性をひろげてきた。「科学は無限、人智は無限」といった人間賛歌であればまだ聞くに値しようが、非科学的イコールケシカラン式の科学万能は、むしろ非科学的でさえあると思う。
なるほど、事柄をせまい範囲に限れば科学はすべての問題に正しい答えを用意してくれる。でも、科学でわからないことがゴマンと存在することだってだれでも知っている。人間は、そしてあらゆる自然の営みは、いつでも経験や論理の力だけでは解決できない問題をつきつけられ、何らかの形で判断をあたえながらここまでやってきたのだ。その中から科学だって生まれたのだと思う。
科学万能には反対しているみたいな論陣を張ったが、しかし、・・・せまい範囲に限った場合、科学がすくなくとも最良の判断を与えてくれるのもたしかである。ひとまず考ええるどんな競争にも、最も確実に勝つ方法を提供するのは科学である。
この一節の後、「このような競争原理にもとづく科学万能は弱い」と続くこの「あとがき」を読むだけでも、この本を手に取ってみる価値があるかもしれません。
いえ、「かもしれない」でなく、手に取る価値があると、私は思います。
2010-11-16[n年前へ]
■「虚学」と「実学」
森本雅樹先生の「宇宙経由 野辺山の旅 」から。
「本学はものの役に立つ人間を社会に送り出すことをモットーとし、実学に徹した教育を行っております」(中略)
もしも、私たちの先祖が、そのときの「実学」に徹していたら、もちろん今日の天文学は生まれなかったであろうし、当然その知識と自然の理解をもとにして築かれた物理学は存在しないであろう。
人々が「役に立つ」と言い「実学」と呼ぶ科学技術はそういった過去の虚学の上に成り立っていることを忘れてはならないだろう。
実学・虚学
寺田寅彦が書いたこんな文章を連想し、リアルとイマジナリーのふたつが作る、無限の世界を考える。
俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
寺田寅彦 「無題六十四」
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