2011-05-01[n年前へ]
■「客観的な事実」と「自らの狭い主観」との違い
新多昭二「日本陸軍の殺人光線開発計画」から。
ビスマルクは、『賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない』、といってるが、客観的な巾広い事実と、自らの狭い体験のみから得た主観との違いを戒めているという点で、けだし名言といえるな。
理性と感性の差かも知れない。同じ戦争体験でも、理性的判断を基礎にした客観的事実を遺せば、後年貴重な歴史の語り部になるし、単なる感情の吐露に終われば、せまい個人体験に終わってしまうからね。
ラヂオという言葉が好きで、科学技術が好きで、そして過去や現在から未来へ続く可能性が好きなあなたなら、「広島生まれ・京都帝国大学工学部・戦時科学研究養成機関卒業。陸軍登戸研究所勤務後、京都帝大工学部電気工学教室勤務。…」という新多昭二が書いた「秘話 陸軍登戸研究所の青春 (講談社文庫)」を一度手にとれば、文庫本サイズに凝縮された「知恵と笑いの預言書」に絶対ハマること間違いありません。
帝銀事件で世に知られることになった陸軍登戸研究所のことだけでなく、明治幕末からパロアルトの情報工学まで、なんて濃い人生があるのだろうと驚かされます。
「賢者愚に学び、愚者賢に学ばず」ということわざがあるが、どこをどう探し回っても、高慢な賢者や謙虚な愚者にはお目にかからない。愚かさは高慢と同居しているのが常である。
「秘話 陸軍登戸研究所の青春」 おわりに
「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」かつ「賢者愚に学び、愚者賢に学ばず」のであれば、…もしかしたら「愚であり賢である事実」が「歴史」と呼ばれるものなのかもしれません。
2012-04-21[n年前へ]
■高慢な賢者や謙虚な愚者は何処にもいない
「他山の石」を読みつつ、脈絡なく、「客観的な事実」と「自らの狭い主観」との違いの言葉を思い出す。
「賢者愚に学び、愚者賢に学ばず」ということわざがあるが、どこをどう探し回っても、高慢な賢者や謙虚な愚者にはお目にかからない。愚かさは高慢と同居しているのが常である。
「客観的な事実」と「自らの狭い主観」との違い
歴史をつかさどる女神クリオは、女神のうちで最も内気で控えめで、めったに人にその顔を見せなかったといいます。…歴史とは、内気で控えめでちょうど良いのではないでしょうか。
私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについてその時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また、現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行い、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。
このようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。
多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。
無意識に行う「過去と現在と未来の重ね会わせ」
愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。(チェーホフ)
愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。
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