2009-02-28[n年前へ]
■「阿」+「弥陀」=?
森達也の「視点をずらす思考術 」より
阿弥陀のミダは、測るという意味、メジャーの語源だとの説もあります。アは反意を示す接頭語。つまり、噛み砕いてしまえば、阿弥陀はサンスクリット語で、「わからない」という意味を表しているのです。
p.106 多面的矛盾に満ちた「現代の不安」
2009-07-12[n年前へ]
■研究レポート風 「天才バカボン」における”バカボン”の由来
ハジメに
赤塚不二夫のマンガ 「天才バカボン 」は、バカボンのパパ・ママ、そして”バカ”な長男バカボンと次男の天才ハジメの周辺を舞台にしたギャグ・マンガである。マンガのタイトルにもなっている「バカボン」という名前は、英語の”vagabond”(バガボンド=放浪者)からきているという説と(一例としてWikipediaを挙げる)、釈迦・世尊を意味する”薄伽梵”(バギャボン=サンスクリット語の“Bhagavad”)に由来する(例)という2説がある。
残念なことに、ネット上において、いずれの説が正しいのかを判断しうる資料を見つけることは難しいのが現状である。 そこで、本文章では、バカボンという名前の由来が「放浪者”vagabond”」と「(いわゆる日本語の)”馬鹿”」にあることを確認する。そして、”薄伽梵”説の(主観的)理由である「バカボンのパパの常套句”これでいいのだ”という言葉が”覚りの境地”を連想させ、仏教的な思想を感じさせること」について、「これでいいのだ」という生き方は赤塚不二夫が自身の父から得たものであることについて述べる。
本人が語る「バカボン」の由来
「バカボン」の由来について、赤塚不二夫自身は、「バカボンド”vagabond”=放浪者」であることを語っている。たとえば、1975年9月9日に「話の特集」編集室にて和田誠を相手にしたインタビューで次のように語っている(インタビューの内容は自由国民社「赤塚不二夫の特集 (話の特集ライブラリー) 」 p.245 "赤塚不二夫 自作を語る"で読むことができる)。
『バカボン』をやろうとした時は、(中略)もっと本格的な馬鹿を主人公にしたくて、スタッフに相談したら猛反対にあった。
最初はタイトルも『天才バカボンド』って考えた。なんとなく幸福な世界を放浪する感じで。ところがバカボンドという言葉は日本人には縁が薄いから、バカボンになった。ここで赤塚不二夫が書く「スタッフの猛反対」というのは、本格的な”馬鹿”を主人公にすることへの心配、である。
設定としては、バカボンが馬鹿で、そこに天才の弟が生まれてきて、その二人で何とか話ができると思ったけど、描いているうちにおやじが目立ってくる。それからおやじが主人公みたいになって、最後は独壇場になっちゃった。
その経緯については、小学館の赤塚不二夫担当編集者だった武井俊樹も「赤塚不二夫のことを書いたのだ!! 」中でこう綴っている(p.121)。
(マガジンの内田編集長が)子供のバカボンの他にも、利口な子を出してくれと注文をつけた。韓国で話題の、天才少年キムが頭にあったのだ。
赤塚も折れた。天才のハジメと、馬鹿なバカボンの組み合わせで行こう、ということになって、タイトルも『天才バカボン』となった。
「天才バカボン」のタイトルの「天才」は二男ハジメを意味し、バカボンは”馬鹿”であると同時に”放浪者”も想い起させる長男バカボンを指している、というわけである。「バカボン」=「バカボンド」であると同時に、「バカボン」=「馬鹿」であることを、赤塚不二夫自身が説明しているのである。
これに対し呈される疑問として、次のようなものがある。
ちなみに1993年に赤塚本人がテレビ番組で「バガボンド説」を言っているが、「だからパパは無職でなくてはならない」とも言っており、バカボンではなくパパを基準にしているところが疑問でもある。これは、赤塚不二夫が「(描いているうちに)おやじが主人公みたいになって、最後は独壇場になっちゃった」と語るように、赤塚不二夫の当初の意図とは異なり、「バカボンのパパ」がマンガの主人公になってしまったから、ということに思われる。「バカボン」という名前で象徴されるものが、長男ではなくパパになってしまったから、と考えるのが自然である。
「バカボン」は、「(本格的な)馬鹿」であり、幸福な世界の放浪者「バカボンド」なのである。
「これでいいのだ」という思想
赤塚不二夫は、自著「赤塚不二夫―これでいいのだ (人間の記録) 」(日本図書センター)中の冒頭と最後において、「これでいいのだ」という言葉について、このように書いている(p.18,p.212)。
天才バカボンのパパがよく口にする”これでいいのだ”は、ぼくのおやじの生き方と共通するものがある。果たして、”これでいいのだ”という人生をおやじは生きたかどうかはわからないが、少なくともそういえるような生き方を目指したことはたしかだと思う。
おやじの死の間際、ぼくの言った「おやじ、もういいよな!」に対して、おやじは声にならない声で「うん」と答えた。あれはきっと「うん、これでいいのだ」と続くはずだったのではないか、と思う。また、「バカボン線友録!―赤塚不二夫の戦後漫画50年史 」の中では、もっと端的に
バカボンのパパのモデルは、僕のオヤジだ。パロディー化して、似ても似つかないけれど、オヤジの「精神」は込められている。と書いている。
赤塚不二夫の父は、終戦後4年間シベリアで抑留生活を過ごした。赤塚不二夫は、その時代以降ずっと”これでいいのか?”と父は父自身に問いかけていたはずだと「こでいいのだ」の中で書いている。”覚りの境地”を連想させる「これでいいのだ」という言葉は、そんな生き方をした父から赤塚不二夫が得たものなのである。「バカボンのパパ」は赤塚不二夫の父なのである。
サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性
「サンスクリット語と英語の祖先は共通である。だから、サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性もある。それならば、”バカボン”の語源が”vagabond”でもあるならば、“Bhagavad”との類似点があってもおかしくない」という考えを支持する人もいる。
確かに、サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族という大語族のインド派に属し(ピエール=シルヴォン・フィリオザ「サンスクリット 」)、音声・文法・語彙などの面から、サンスクリット語や英語は古代言語”インド・ヨーロッパ語”から派生したものであるという説が有力である(アンリエット・ヴァルテール「西欧言語の歴史 」藤原書店)。
しかし、サンスクリット語“Bhagavad”が、”恵まれた”ということを意味するサンスクリット語”bhaga”から派生しているのに対し、英語”vagabond”は、”はっきりしない・さまよう・曖昧な”という意味をさすラテン語の”vago”に由来している。語感が似ているという考え方もあるが、この2つの言葉の由来となる語句の意味するところは、大きくかけ離れていると言わざるをえない。したがって、サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性は低い、と判断する。
おわりに
赤塚不二夫「天才バカボン」の”バカボン”の由来は「放浪者”vagabond”」と「(いわゆる日本語の)”馬鹿”」にある。また、「これでいいのだ」というバカボンの思想は赤塚不二夫の父から(赤塚が)得たものである。
バカボンのパパの言葉は強靱な哲学です。それは人間を、不必要な後悔や罪悪感から解放して、より自由に世界を眺める手立てを教えてくれます。辛いときにこの言葉を呪文のように唱えてみることをお勧めします。
四方田犬彦「指が月をさすとき、愚者は指を見る―世界の名科白50 」