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2009-07-12[n年前へ]

研究レポート風 「天才バカボン」における”バカボン”の由来 

ハジメに

 赤塚不二夫のマンガ 「天才バカボン 」は、バカボンのパパ・ママ、そして”バカ”な長男バカボンと次男の天才ハジメの周辺を舞台にしたギャグ・マンガである。マンガのタイトルにもなっている「バカボン」という名前は、英語の”vagabond”(バガボンド=放浪者)からきているという説と(一例としてWikipediaを挙げる)、釈迦・世尊を意味する”薄伽梵”(バギャボン=サンスクリット語の“Bhagavad”)に由来する()という2説がある。

残念なことに、ネット上において、いずれの説が正しいのかを判断しうる資料を見つけることは難しいのが現状である。 そこで、本文章では、バカボンという名前の由来が「放浪者”vagabond”」と「(いわゆる日本語の)”馬鹿”」にあることを確認する。そして、”薄伽梵”説の(主観的)理由である「バカボンのパパの常套句”これでいいのだ”という言葉が”覚りの境地”を連想させ、仏教的な思想を感じさせること」について、「これでいいのだ」という生き方は赤塚不二夫が自身の父から得たものであることについて述べる。

本人が語る「バカボン」の由来

 「バカボン」の由来について、赤塚不二夫自身は、「バカボンド”vagabond”=放浪者」であることを語っている。たとえば、1975年9月9日に「話の特集」編集室にて和田誠を相手にしたインタビューで次のように語っている(インタビューの内容は自由国民社「赤塚不二夫の特集 (話の特集ライブラリー) 」 p.245 "赤塚不二夫 自作を語る"で読むことができる)。

 『バカボン』をやろうとした時は、(中略)もっと本格的な馬鹿を主人公にしたくて、スタッフに相談したら猛反対にあった。
 最初はタイトルも『天才バカボンド』って考えた。なんとなく幸福な世界を放浪する感じで。ところがバカボンドという言葉は日本人には縁が薄いから、バカボンになった。
 設定としては、バカボンが馬鹿で、そこに天才の弟が生まれてきて、その二人で何とか話ができると思ったけど、描いているうちにおやじが目立ってくる。それからおやじが主人公みたいになって、最後は独壇場になっちゃった。
 ここで赤塚不二夫が書く「スタッフの猛反対」というのは、本格的な”馬鹿”を主人公にすることへの心配、である。
 その経緯については、小学館の赤塚不二夫担当編集者だった武井俊樹も「赤塚不二夫のことを書いたのだ!! 」中でこう綴っている(p.121)。
(マガジンの内田編集長が)子供のバカボンの他にも、利口な子を出してくれと注文をつけた。韓国で話題の、天才少年キムが頭にあったのだ。
 赤塚も折れた。天才のハジメと、馬鹿なバカボンの組み合わせで行こう、ということになって、タイトルも『天才バカボン』となった。
 

 「天才バカボン」のタイトルの「天才」は二男ハジメを意味し、バカボンは”馬鹿”であると同時に”放浪者”も想い起させる長男バカボンを指している、というわけである。「バカボン」=「バカボンド」であると同時に、「バカボン」=「馬鹿」であることを、赤塚不二夫自身が説明しているのである。
 これに対し呈される疑問として、次のようなものがある。

ちなみに1993年に赤塚本人がテレビ番組で「バガボンド説」を言っているが、「だからパパは無職でなくてはならない」とも言っており、バカボンではなくパパを基準にしているところが疑問でもある
これは、赤塚不二夫が「(描いているうちに)おやじが主人公みたいになって、最後は独壇場になっちゃった」と語るように、赤塚不二夫の当初の意図とは異なり、「バカボンのパパ」がマンガの主人公になってしまったから、ということに思われる。「バカボン」という名前で象徴されるものが、長男ではなくパパになってしまったから、と考えるのが自然である。

 「バカボン」は、「(本格的な)馬鹿」であり、幸福な世界の放浪者「バカボンド」なのである。

「これでいいのだ」という思想

 赤塚不二夫は、自著「赤塚不二夫―これでいいのだ (人間の記録) 」(日本図書センター)中の冒頭と最後において、「これでいいのだ」という言葉について、このように書いている(p.18,p.212)。

 天才バカボンのパパがよく口にする”これでいいのだ”は、ぼくのおやじの生き方と共通するものがある。果たして、”これでいいのだ”という人生をおやじは生きたかどうかはわからないが、少なくともそういえるような生き方を目指したことはたしかだと思う。
 おやじの死の間際、ぼくの言った「おやじ、もういいよな!」に対して、おやじは声にならない声で「うん」と答えた。あれはきっと「うん、これでいいのだ」と続くはずだったのではないか、と思う。
 また、「バカボン線友録!―赤塚不二夫の戦後漫画50年史 」の中では、もっと端的に
バカボンのパパのモデルは、僕のオヤジだ。パロディー化して、似ても似つかないけれど、オヤジの「精神」は込められている。
と書いている。
 赤塚不二夫の父は、終戦後4年間シベリアで抑留生活を過ごした。赤塚不二夫は、その時代以降ずっと”これでいいのか?”と父は父自身に問いかけていたはずだと「こでいいのだ」の中で書いている。”覚りの境地”を連想させる「これでいいのだ」という言葉は、そんな生き方をした父から赤塚不二夫が得たものなのである。「バカボンのパパ」は赤塚不二夫の父なのである。

サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性

 「サンスクリット語と英語の祖先は共通である。だから、サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性もある。それならば、”バカボン”の語源が”vagabond”でもあるならば、“Bhagavad”との類似点があってもおかしくない」という考えを支持する人もいる。

 確かに、サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族という大語族のインド派に属し(ピエール=シルヴォン・フィリオザ「サンスクリット 」)、音声・文法・語彙などの面から、サンスクリット語や英語は古代言語”インド・ヨーロッパ語”から派生したものであるという説が有力である(アンリエット・ヴァルテール「西欧言語の歴史 」藤原書店)。

 しかし、サンスクリット語“Bhagavad”が、”恵まれた”ということを意味するサンスクリット語”bhaga”から派生しているのに対し、英語”vagabond”は、”はっきりしない・さまよう・曖昧な”という意味をさすラテン語の”vago”に由来している。語感が似ているという考え方もあるが、この2つの言葉の由来となる語句の意味するところは、大きくかけ離れていると言わざるをえない。したがって、サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性は低い、と判断する。

おわりに

 赤塚不二夫「天才バカボン」の”バカボン”の由来は「放浪者”vagabond”」と「(いわゆる日本語の)”馬鹿”」にある。また、「これでいいのだ」というバカボンの思想は赤塚不二夫の父から(赤塚が)得たものである。

 バカボンのパパの言葉は強靱な哲学です。それは人間を、不必要な後悔や罪悪感から解放して、より自由に世界を眺める手立てを教えてくれます。辛いときにこの言葉を呪文のように唱えてみることをお勧めします。

四方田犬彦「指が月をさすとき、愚者は指を見る―世界の名科白50

2017-01-21[n年前へ]

「入金」を意味する「チャージ」の歴史 第1話 

 現代の日本では、「入金する」ことを「チャージ」と表すことが多い。たとえば、何かを買ったり・使ったりすることができる権利や口座など、あるいは、そういう用途のカードに再入金を行うことを「チャージ」と表現することが多いように思う。

 ところが、それを英語で表現しようとすると、それは「チャージ」ではない、というワナがある。「再入金する」ということを表すために、top-upとかadd valueとは言うけれど、chargeと言ってしまうと「課金する」「支払いを(さらに)求める」といった意味になってしまう。つまり、意味が逆になってしまう。

 この「意味の逆転」が生じるに至った歴史・主要因として、まず一番疑いたくなるのがJR東日本が2001年から提供している乗車カード・電子マネーサービスであるSuica(スイカ)だ。それまでに、再入金できないプリペードカードはすでに広まっていたが、Suica(スイカ)は、再入金可能かつ広まったプリペードカードの先駆けだった。

 その「Suica(スイカ)サービス開始」のプレスリリース、2001年9月4日にJR東日本が出したプレスリリースでは、カードに再入金をすることを「チャージ(ご入金)」と表現している。もっとも、この時代の日本では、入金=チャージという共通認識は確立されていなかったようで、「チャージ」には「チャージ:Suicaのイオカード部分に入金すること」という、注釈も付いている。今や「チャージ」という日本語に注釈が付くことは少ないが、この時代には注釈がまだ付いていた。ちなみに、イオカードというのは、SUICAカード以前に使われていた磁気式プリペイド乗車カード(に相当する機能)のことである。

 もうじき20年近く前になる21世紀の初頭の日本、JR東日本が「なぜ、再入金することを表すために、チャージという言葉を選んだ経緯・理由」をJR東日本に(もしその経緯などを示す資料などあれば?と)問い合わせてみた。そして、JR東日本から頂いた回答は次のようになる。

 明確な資料等はございませんが、Suicaにつきましては、従来の磁気式のイオカード等、使い切りの形ではなく、充電式の電池等のようにカードに再度入金をしていただくことで、1枚のカードを繰り返しご利用いただけることをお客さまにわかりやすくお伝えする趣旨で充電等を意味する「チャージ」の用語を用いております。なお、一部、わかりづらいというご意見がありましたので、宣伝物等のご案内については「入金(チャージ)」という表現を使用しております。

JR東日本

 CHARGEの語源は、ラテン語の「荷車(carrus)」から、「荷を積む(carricare)」という意味が、古フランス語を経て、英語で使われるようになったものだ。荷を積むことは、負荷を掛けることであって、それは支払いを求める(責任や仕事の分担を求める)ことにも繋がるし、充電された状態にするための「負荷」を掛けることも意味する。この車に積む「荷」をプラスの(足す)作用を持つ存在と捉えるかマイナスの(引く)ものと考えるかが、2017年の日本語のチャージと英語のChargeの違いに繋がっているように思われる。

 JR東日本が「チャージ」という言葉を選ぶに至った歴史の前ページ、そして、それ以外のエトセトラ…については、次にまたメモ書きしてみたいと思う。



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