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2013-10-30[n年前へ]

「人の錯覚」も考えて作ってあるのが「本当に真っ当なフォント」です!? 

 正方形(あるいは長方形)の紙を目の前に置き、筆記用具を取り出して、紙の中央に印を付けてみます。その上で、(紙の対角線を折るなどして)本当の紙中央を調べると、「私たちが真ん中だと思う場所」は本当の真ん中より、少し左上に位置することに気づかされます。実際、私が何人かにこのテストをしてもらった結果では、1/2~1/3くらいの人たちが(本当の真ん中に対して)左上辺りを「ここが真ん中だ!」と指差します。

 「真性活字中毒者読本―版面考証/活字書体史遊覧」に、こんな「人の錯覚例」とともに、だからフォント(書体)を描く時には、線が真ん中にあるように見せるためには、横線なら数学的な座標中心よりも上に線を配置し、縦線なら少し左に寄せるように作る、そういうことを書体デザイナーは意識的・無意識的に行っていると書いてありました。

 試しに、ヒラギノ明朝で「闇」という字を描き、門構えと音という部分、つまり「3本の横線が引かれている部分」を眺め・横線の間の感覚を計ってみると、確かに3本線の真ん中に引かれた線は少し上に寄っています(横線の間に間隔比を数字で表してみました)。数字を眺めてみると、おおよそ5パーセントほど「中央線」が上に寄っていることがわかります。

 真っ当な書体は、人の錯覚を意識して「文字が自然に見える」ように人工的な作為を凝らしている…という話など、書体に込められた工夫がとても面白く感じます。

「人の錯覚」も考えて作ってあるのが「本当に真っ当なフォント」です。






2013-10-31[n年前へ]

続 「人の錯覚」も考えて作ってあるのが「本当に真っ当なフォント」です!? 

 「人の錯覚」も考えて作ってあるのが「本当に真っ当なフォント」です!?で紹介した、「真性活字中毒者読本―版面考証/活字書体史遊覧」に小宮山博史氏が書かれている話は、書体(フォント)を作成する上での「人の錯視・錯覚を意識して調整を行う例」がいくつも書かれていて、本当に興味深いものです。

 他の例としては、たとえば、「ノ木偏(のぎへん)」の中央を走る縦線を完全に垂直な棒にしてしまうと、(ノの字型の)ハライの線の影響で、ノ木偏が左に倒れているように見えてしまう。だから、何らかの工夫が必要だといった話です。あるいは、「各」という文字は上部の(左右へハラわれるハライの影響で、各の下部にある「口」の上部が拡がって見えてしまうので、「口」を直方体として描いてしまうと、上が拡がった台形に見えてしまう(だから工夫するのが基本だ)…といった話です。

 はたして、ヒラギノ明朝(上段)と小塚明朝(下段)で、「秋」「閣」という字を描いてみました。上に描いたのがヒラギノ明朝で、下段に描いたのが小塚明朝です。

 …なるほど、ヒラギノ明朝の「秋」のノ木偏(のぎへん)の縦棒は、線下部が左側に拡がっていて、全体の(錯視分も含めた)重心として「錯視を防止して垂直に見せる」ような処理になっていそうです。また、「閣」の中にある「口」も幾何学上は「上が狭まった台形」となっていて、錯視分も含めた形として、水平・鉛直に線をなす「四角」となっているかのように 感じられます。

 それに対して下段の小塚明朝は、「秋」の「ノ木偏(のぎへん)」の上部が左に傾いているように見えたり、「閣」の中にある「口」の下部がすぼまっているように感じられてきます。もちろん、データ・電子上は小塚明朝の秋のノ木偏縦棒は完全に垂直ですし、閣の中にある口は完全な直方形です。しかし、感覚的には、形状がおかしく見えてしまうように感じられてきます。

 人の感じ方や見え方といったもの、たとえば錯視とか感覚的なものの研究は、人にまつわる色んな技術における過去のありとあらゆる技術者たちの常識をまずさらってみるのが良いのかもしれません。そうしないと、車輪の再発明を時間を掛けて繰り返してしまいそうです。

続 「人の錯覚」も考えて作ってあるのが「本当に真っ当なフォント」です!?








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