2008-06-14[n年前へ]
■続・秋葉原という街で
秋葉原の事件が起こって、もうすぐ一週間が経つ。その一週間の間に、出張帰りに現場で少し佇んだ。昔はよく通った町、秋葉原で倒れた人たちのことを少し考えた。
あるいは、彼と同じように、同じようなコースを東名高速を車で走り、秋葉原に行った。そういえば、秋葉原で、ビル荒らしと間違われ職務質問に合い、結構長い時間、鞄の中身からポケットの中身までボディチェックもされたこともある。静岡 裾野インター近くの会社に通勤する人の行列や、バスを待ちの行列の前を通る朝が多い。だから、もしかしたら、彼とすれ違ったこともあるかもしれない。
東浩紀という学者が、この件について書いた文章を読んだり、語る言葉を聞いた。「秋葉原という場所」を選んだ理由についてこの人が書く解説は、不必要に長く・小難しい言葉を使い、そして肝心なことから目を逸らしているように感じた。
感じた「肝心なこと」を一言でいえば、「彼」にとっての「秋葉原」は「自分に似た人がいる街」だったのだろう、ということに尽きる。自分をわかってくれる人がいるかもしれない街、そして、自分と同じような「弱い」人たちが歩いている街、だと感じていたのではないだろうと、そんな奇妙な確信がある。
渋谷のセンター街には疎外感を感じ、センター街を歩く人たちを倒す自信もなく、ましてや、新宿 歌舞伎町に突っ込んだ日には、逆にドス(小型の刀)で一発で倒されそうにも感じ、だから、そういった場所を意識上で選択肢としても考えることがなかったのではないか、と思っている。結局のところ、「秋葉原」は『自分に似た「弱い」人がいる街』だろうと「彼」は感じていたのだろう、と思っている。
このカッコ付きの「弱い」ということ「自分(それは逆に他人への認識と表裏一体である)」ということを掘り返していないように感じる評論には、「肝心なことから目を逸らしている」という印象を受ける。不必要に長く・小難しい言葉を重ねれば読み物にはなるかもしれないが、行動には繋がらない、と私は思う。