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2011-01-27[n年前へ]

「自分の中」や「できること」が見えますか? 

 何年か前のNHK朝の連続ドラマ、「ちりとてちん」のDVDを借りて、ノートPC で眺めていると、こんな台詞が聞こえてきました。

「自分の中にないもんやろうとしたらあかんで。

 「できるかわからないこと」を引き受けるかどうか考えるとき、「それをできるか」どうかをということに頭を悩まされると同時に、「それが自分の中にあるか」ともついつい考えてしまいます。なぜかというと、「自分の中にないもの」をしようとしても、どうしても、いつか気持ちが続かなくなって・・・、結局できなくなってしまうからです。

 「できること」と「自分の中にあること」は違います。「何かをできるか」ということと「その何かが自分の中にあるか」ということは、決して同じことではないのだろうと思います。「自分の中にあるけれど、できないこと」ということもあるのかもしれませんし、「自分の中にないのに、できること」ということも、もしかしたら、あるのかもしれません。「ずっと、できなかったことなのに、いつかできるようになる」こともあるかもしれないと思ますし、「今はできても、ずっと続ける気持ちにはなれないこと」だって、あるのかもしれません。

 「自分の中」や「できること」は、見ることができるのでしょうか。それとも・・・見ることはできないものなのでしょうか。

 さてさて、今日のタイトルはテレビドラマ「不揃いの林檎たち」のサブタイトル意識です。この記事の「関連お勧め記事」を読み進めると、色んなテレビドラマや、そのサブタイトルが浮かんでくるかもしれません。

2011-02-26[n年前へ]

「汚れちゃったのは、どっちだ?」 

 藤原基央 BUMP OF CHICKEN "ギルド"( amazon )

汚れちゃったのは、どっちだ。
世界か?自分の方か。

美しくなんかなくて、優しくもできなくて。
それでも呼吸が続く事は、許されるだろうか?

汚れちゃったのは、どっちだ?
その場しのぎで笑って、鏡の前で泣いて。
汚れたって、受け止めろ。
構わないから、その姿で生きるべきなんだよ。
いずれにせよ、その瞳は開けるべきなんだよ。

 海抜ゼロメートルの辺りから、標高1000mを超える場所まで行き、青空や星空をよく眺めました。そんなとき、いつもMDに録音されたBUMP OF CHICKENの「天体観測」を聴いていました。

2011-04-10[n年前へ]

「他人」はそれぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ 

 自分と違う「他」の人を他人と呼びます。他人は自分と異なる人なのですから、それぞれが使う言葉(語句)の「意味するところ」も異なるし、考え方(ロジック)も、あるいは、それらを支える根本たる感じ方(価値観)も異なるわけです。

 目の前に考え方や感覚や言葉使いが未知の人がいたとして、「必ず相手を理解することができる」とも思えませんが、会話をするためには一体どうすれば良いものなのでしょう?

 自分でない他の人と言葉を交わそうとする時には、その3つの違がどのような風であるかを考え・推測する、という作業が重要であるように思います。

 まず、「その人の使う言葉を、自分が使う言葉とは別のものと考えて、その人が話す言葉の論理の中での矛盾を最小限にするよう、その人が持つ言葉の定義を見つけ出す」(そのようにすることで)その人の言葉の定義が決められた後に、「その人が話した言葉を通して、価値観の矛盾がないかどうか考える」 ただひたすらに、この一連の作業を、矛盾がなくなるまで反復を繰り返し続けることで、「この人はこういう感じ方・考え方をして、こういう言葉の使い方をする人なのだろうか」という推測をすることができるわけです。

 そして、いつでも何らかの違和感(矛盾)を感じたならば、その違和感の元を見つけるための確認作業を行ってみる、という具合になります。何かを問いかけて、その反応を確認してみたりするわけです。

 もちろん、こんな風に「その人の感じ方や言葉の使い方や考え方」といったものに対して、矛盾が存在しなくなるまでアレやコレやと考える・・・というのは少し面倒な作業です。だから、ある程度は用意された「パターン」に当てはめ・そしてテンプレートからの誤差分を修正するようにすることで、推測作業を簡素化して考えることも多いように思います。

 こうした「テンプレート・マッチング」による他人の言葉や感じ方や考え方を推測する方法の欠点は、 自分がこれまで見たことがない・想定したことがない「未体験・未想定の感じ方・考え方をする」人を目の前にした時、大雑把にも対応させられそうなテンプレートがなく、さてどうしようか?と対応に困ってしまう・・・ということです。そんな時は、時間をかけつつ、新しいテンプレートを自分の中に作り上げていくことになるのでしょうか。

 言葉や論理あるいは価値観といったものは、本当のところ、「理解」なんていうことが可能であるのか、よくわかりません。まして、理解の先に存在しているかもしれないという「納得」ともなればなおさら、です。

それぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ人たちで溢(あふ)れ・互いにすれ違うこの時代、どんな風に考え・動くのが良いのでしょうか?

「他人」はそれぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ






2013-07-11[n年前へ]

「時代は自ら前に進めるものだと信じよう」 

 2013年07月12日、たぶん±3歳くらいの同世代、「陰気な男でいいですか?」の日記にしびれました。

 ”オレの軌跡はどんなだろう。他人が見てもワクワクするものを作り、自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう”

 「勢い」というものは多分とても大事なことで、何かひとつの視点から見た景色を感じとり・的確に言葉として描き出すことができた時、その文章には「確かなリズム」が必ず伴うような気がします。それは、たとえば、 「知らないことは知らないと言おう。」の太宰治の「正義と微笑」のようなリズムです。

 ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。

 …これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。

 僕は、来年、十八歳。

 2013年07月12日の「陰気な男でいいですか?」、「オレが行かずに誰が行く。オレが読まずに誰が読む。オレの軌跡はどんな感じなんだろう」というリズムを、1980年代に青春を過ごした人が2010年代の今この瞬間に読んだなら、きっと(そこに)書かれていることと同じような心地になるに違いありません。

 それぞれのコーナで紹介されている内容に偏りが感じられるが、それが筆者のマイコン人生の軌跡や時期を表していると思うとグッとくる。同じ日本でマイコンに全てを注いでいてもイロイロなルートがあったんだな。オレの軌跡はどんな感じなんだろう。
 それはそれとして、当時のワクワク感を思い出して改めて感じる。他人が見てもワクワクするようなものを作って自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう。明日も楽しく前向きに。



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