2009-04-11[n年前へ]
■「美しい」と「きれい」の違い
「美しい」と「きれい」は違うのだ。
岸田 劉生 「美の本体 (講談社学術文庫) 」
「きれい」というのは「汚い」の反対語ですが、「美しい」というのは醜悪な部分まで含んでいます。
安野 光雅 「絵のある人生 (岩波新書) 」
2009-04-12[n年前へ]
■読む人が真似をしたくなる江國香織の「作文術」
江國香織の文章は、本当に的確で、読んでいるととても気持ちが良くなる。文字をそのまま追っていくだけで、書いてあることが「すぅっと」頭の中に収まってくるし、それでいて何度読み直しても新鮮だ。
江國香織が22人のインタビューイに「子供のころの話」を聞き、それを文章にした「十五歳の残像 」を読むと、そんな感覚をどの頁・どの行からも感じることができる。たとえば、 「すとん、と伝えるひと――――安西水丸さん」ならこうだ。
理屈では説明できないこと、というのがある。とても簡単なことなのに――――とても簡単なことだから、と言うべきかもしれないが――――、説明はできない。
たとえば。
わかります、と、私は思わず声を大きくしてしまう。一体何がわかったのか、どうわかったのか、はよくわからないままに。
なんの理屈も説明もなく、ただすとんと胸におちてくる。江國香織の文章には、とてもわかりやすく納得させられてしまう。そして、不思議に心地よい。
江國香織の文章の恐ろしいところは、彼女の書いたものをよむと、その江国香織の「文の調子」「文体」を無意識のうちに真似しようとしてしまうことだと思う。もちろん、そんなことは誰にもできない、のだけれど。
2010-03-17[n年前へ]
■「生まれ変わる自分」と「付き合う相手」と「理系と文系」
「理系と文系」といった分類については、多くの人が一度は考えてみることがある話だと思っていますし、あるいは、一度は考えなければいけない時期があるのかもしれないとも、思っています。さらには、そんな二択の選択肢のどちらかを、選ばなければいけないように見えるときも、あるのかもしれません。
とはいえ、多くの人は、そういう話題・時期からは離れ・いつの間にか卒業していくものだとも、思っています。それでも、たまには、そんな話題を思い出し考えることもあります。
「理系女子向けのコミュニティ雑誌」を手に取り読んでいると、「生まれ変わるなら、理系と文系のどちらを選ぶか?」「付き合う相手は、理系と文系のどちらが良いか?」を男性・女性/理系・文系の計4種類の人たちに聞いたアンケート結果がありました。そのアンケート結果が、とても興味深いものだったので、その記事を撮影してみました。それが、下のスナップ写真です。
このアンケート結果を眺めたとき、そこから見えてくるのは、理系と文系という二者選択が仮にあったとするのなら、そしてそこに自分の好みというものがないのだったとするならば、文系を選んだ方が良さそうだということです。”いわゆる”理系と文系の男女比率がどのようなものであるかに寄りますが、そのような「答え」が自然に思われます。
この話は、忘れなければ、もう少し続けようと思います。もちろん、適当に、時間をおいつつ、になるとは思いますが…。
2010-10-13[n年前へ]
■言葉を尽くしても、確かめられないもの
「言葉」にまつわる一節を読み、ふと思い出した、もうひとつの言葉。言葉をいつも尽くしていれば、確かめることができるのだろうか。それとも、確かめられないものがあると知りつつも、言葉を尽くしていくものだろうか。
気持ちなんて伝わらない。
言葉を尽くして説明しなければ、
コミュニケーションは成り立たない。
森博嗣「四季 秋」
どれだけ、言葉を尽くしてみても、
確かめられないものがあるだろう。
小田和正「もっと近くに」
言葉と心の間、それは君しか 分らない。
小田和正 "between the word & the heart "
2011-04-10[n年前へ]
■「他人」はそれぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ
自分と違う「他」の人を他人と呼びます。他人は自分と異なる人なのですから、それぞれが使う言葉(語句)の「意味するところ」も異なるし、考え方(ロジック)も、あるいは、それらを支える根本たる感じ方(価値観)も異なるわけです。
目の前に考え方や感覚や言葉使いが未知の人がいたとして、「必ず相手を理解することができる」とも思えませんが、会話をするためには一体どうすれば良いものなのでしょう?
自分でない他の人と言葉を交わそうとする時には、その3つの違がどのような風であるかを考え・推測する、という作業が重要であるように思います。
まず、「その人の使う言葉を、自分が使う言葉とは別のものと考えて、その人が話す言葉の論理の中での矛盾を最小限にするよう、その人が持つ言葉の定義を見つけ出す」(そのようにすることで)その人の言葉の定義が決められた後に、「その人が話した言葉を通して、価値観の矛盾がないかどうか考える」 ただひたすらに、この一連の作業を、矛盾がなくなるまで反復を繰り返し続けることで、「この人はこういう感じ方・考え方をして、こういう言葉の使い方をする人なのだろうか」という推測をすることができるわけです。
そして、いつでも何らかの違和感(矛盾)を感じたならば、その違和感の元を見つけるための確認作業を行ってみる、という具合になります。何かを問いかけて、その反応を確認してみたりするわけです。
もちろん、こんな風に「その人の感じ方や言葉の使い方や考え方」といったものに対して、矛盾が存在しなくなるまでアレやコレやと考える・・・というのは少し面倒な作業です。だから、ある程度は用意された「パターン」に当てはめ・そしてテンプレートからの誤差分を修正するようにすることで、推測作業を簡素化して考えることも多いように思います。
こうした「テンプレート・マッチング」による他人の言葉や感じ方や考え方を推測する方法の欠点は、 自分がこれまで見たことがない・想定したことがない「未体験・未想定の感じ方・考え方をする」人を目の前にした時、大雑把にも対応させられそうなテンプレートがなく、さてどうしようか?と対応に困ってしまう・・・ということです。そんな時は、時間をかけつつ、新しいテンプレートを自分の中に作り上げていくことになるのでしょうか。言葉や論理あるいは価値観といったものは、本当のところ、「理解」なんていうことが可能であるのか、よくわかりません。まして、理解の先に存在しているかもしれないという「納得」ともなればなおさら、です。
それぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ人たちで溢(あふ)れ・互いにすれ違うこの時代、どんな風に考え・動くのが良いのでしょうか?