2010-03-22[n年前へ]
■「科学が何を実現するか」を科学は答えない
安斎育郎・板倉聖宣・滝川洋二・山崎孝「理科離れの真相 (ASAHI NEWS SHOP) 」から。
「科学をいかなる価値の実現のために役立てるべきか」という深刻な問いに対する答えは、科学それ自身からは出てこない。(中略)問いに対する答えは、本質的に価値観の選択の問題であり、科学のありようを指導する別の原理を必要とする問題である。
2010-04-04[n年前へ]
■「運命」と「縁」…と。
角田光代の「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 」から。
運命の人、というものを私はあんまり信じていないけれど、縁のあるなし、というものは確実に信じている。縁がある人とは、友達であれ恋人であれ恩師であれ、こっちが行動を起こさなくともどこかで会える。価値観や立場がまったく違ったとしても、一年に一度しか会わなくとも、関係は切れない。
その関係に、意志の力というものはあまりにも関与できないような気がする。縁、というほかないような気がする。
2011-04-10[n年前へ]
■「他人」はそれぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ
自分と違う「他」の人を他人と呼びます。他人は自分と異なる人なのですから、それぞれが使う言葉(語句)の「意味するところ」も異なるし、考え方(ロジック)も、あるいは、それらを支える根本たる感じ方(価値観)も異なるわけです。
目の前に考え方や感覚や言葉使いが未知の人がいたとして、「必ず相手を理解することができる」とも思えませんが、会話をするためには一体どうすれば良いものなのでしょう?
自分でない他の人と言葉を交わそうとする時には、その3つの違がどのような風であるかを考え・推測する、という作業が重要であるように思います。
まず、「その人の使う言葉を、自分が使う言葉とは別のものと考えて、その人が話す言葉の論理の中での矛盾を最小限にするよう、その人が持つ言葉の定義を見つけ出す」(そのようにすることで)その人の言葉の定義が決められた後に、「その人が話した言葉を通して、価値観の矛盾がないかどうか考える」 ただひたすらに、この一連の作業を、矛盾がなくなるまで反復を繰り返し続けることで、「この人はこういう感じ方・考え方をして、こういう言葉の使い方をする人なのだろうか」という推測をすることができるわけです。
そして、いつでも何らかの違和感(矛盾)を感じたならば、その違和感の元を見つけるための確認作業を行ってみる、という具合になります。何かを問いかけて、その反応を確認してみたりするわけです。
もちろん、こんな風に「その人の感じ方や言葉の使い方や考え方」といったものに対して、矛盾が存在しなくなるまでアレやコレやと考える・・・というのは少し面倒な作業です。だから、ある程度は用意された「パターン」に当てはめ・そしてテンプレートからの誤差分を修正するようにすることで、推測作業を簡素化して考えることも多いように思います。
こうした「テンプレート・マッチング」による他人の言葉や感じ方や考え方を推測する方法の欠点は、 自分がこれまで見たことがない・想定したことがない「未体験・未想定の感じ方・考え方をする」人を目の前にした時、大雑把にも対応させられそうなテンプレートがなく、さてどうしようか?と対応に困ってしまう・・・ということです。そんな時は、時間をかけつつ、新しいテンプレートを自分の中に作り上げていくことになるのでしょうか。言葉や論理あるいは価値観といったものは、本当のところ、「理解」なんていうことが可能であるのか、よくわかりません。まして、理解の先に存在しているかもしれないという「納得」ともなればなおさら、です。
それぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ人たちで溢(あふ)れ・互いにすれ違うこの時代、どんな風に考え・動くのが良いのでしょうか?