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2009-11-17[n年前へ]

「朝三暮四」と「不確実な将来」 

 「朝三暮四」をYahoo!辞書の大辞泉で眺めると、

(中国、宋の狙公(そこう)が、飼っている猿にトチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つやると言うと猿が少ないと怒ったため、朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう喜んだという「荘子」斉物論などに見える故事から)
1.目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと。朝四暮三。
2.生計。くらし。
とある。ある時期から、この故事を思い出すたびに、妙にここで書かれている内容が気になるようになった。

 トチの実を「お金」というものに例え直して考え始めると、特にその内容に対する好奇心が強まってきたのである。なぜなら、「朝に三つ、暮れに四つやる」と「朝に四つ、暮れに三つやる」では、将来がどう変わるか次第で、全然内容が違うのではないだろうか。

 もしかしたら、夕暮れ時には朝とはトチの実の価値が全然違うかもしれない。朝の時点ではトチの実に価値があったとしても、その数時間の後には、(宿題ひきうけ株式会社のそろばん技術やカイコと同じように)トチの実のデフレーションが激しく進み、夕暮れ時にもらうトチの実には何の価値もないかもしれない。

 もちろん、その逆のパターンもあるだろう。夕暮れ時のトチの実の価値が非常に高まっている、という場合である。…けれど、私たちは将来のことはわからない。楽観的に将来を眺めることができる人もいれば、そうでない人もいる。将来を悲観的に考えて、トチの実4つをもらうなら、その価値がわかっている朝に先に欲しい、と思うことは自然な感じ方のようにも思われる。単純に「非合理的」と断言できるたとえ話ではないようにも、思われる。

 朝三暮四、生計・くらしを営んでいく中で、私たちは、どういう選択をするものなのだろう。猿である私たちは、一体どういう選択をすべきなのだろうか。そういうことが、よくわからないまま、毎日は続く。



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