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2011-10-20[n年前へ]

「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」 

 「asada's memorandum (ゴッホの本当のすごさを知った日)」を読みました。この内容が、実に間違った論証の典型的パターンに陥っていました。そこで、「ゴッホの本当のすごさを知った日」の論旨が「どのように間違っているか」について書きます。さらに、19世紀 後期印象派の画家であるゴッホの色彩について、「ゴッホの本当のすごさを知った日」で書かれていることとは「違うこと」を示します。

 「ゴッホの本当のすごさを知った日」で書かれている内容を要約すると、次のようになります。

  • ①ゴッホは色覚が異常だったのではないかと言われているそうだ。
  • ②P型色覚と「普通の」色覚の中間的なものを”疑似体験”させるような色変換をゴッホのRGB画像に掛けてみた。
  • ③色変換された画像は”自然で素晴らしく見えた”から、ゴッホはP型かD型の色覚特性を持っていたのだろう。
 この①②③には、間違った論証の典型的パターンが幕の内弁当のように”詰め込まれています。

 まず、①については、「言われているそうだ」を検証せず、鵜呑みにしてしまうという間違いです。 「ゴッホの色表現は○×の症状によるものではないか」という論文が書かれたりすることもあります。 たとえば、「ゴッホが黄色を使い・眩しい印象の絵を描くのはジギタリス中毒のせいでないか」といった主張などです(T.C.Lee 1981)。 しかし、そういったものは、状況証拠が足りないために、一般的に受け入れるまでには至らない「説」で終わっている、というのが実際のところです。

 ②については、色覚”疑似体験”ツールというのは、原理上、ある色が「どの色」に変換されるかということには、あまり意味がありません。あくまで、どういった色群が「見分けにくい色」となってしまうかを疑似体験するものに過ぎません。それらの「見分けにくい色」を、実際のところ「どういう色」として感じているかまでを追体験できるものではないのです。ましてや、その色覚”疑似体験”ツールにより変換出力された色調をもって、絵画の色表現や階調表現を論じる・感じることができるようなものではありません。ここにある「使い方への間違い」は、「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを整理しないままに作業を行ってしまったのではないか、と思います。

 「シミュレーション」というものを扱う時には、「その道具の適用可能範囲」を知っていなければなりません(さらには、シミュレーション・プログラムを作るような人は、シミュレーションが出力する”結果”すら知っているべきだと私は考えています)。 しかし、「その道具を理解していないと、道具を過信して・使い方を間違える」ということをしてしまいがちです。 ②は、その典型的なパターンです。

 さて、②と③の組み合わせ部分が、「ゴッホの本当のすごさを知った日」において最も「間違っている」部分です。 ②③の組み合わせ部は「Aさんが作ったものに対して、”ある処理”をかけてみた」「すると、”(私には)それが自然で良く”感じられたので、Aさんは”ある処理”のような知覚を持っていたのだろう」というロジックになっています。 これは、とても主観的で、もちろん間違ったロジックです。 まず、「(私には)それが自然で良く”感じられたので」ということは理由になりませんし、主観を理由にするのは非常に良くありません。
 このロジックで、例文を作ってみると、このような具合になります。 「19世紀の作曲家であるエリック・サティの音楽に”高い音を消す変換”をかけたら、”緊張感がなく自然な音”に感じられるようになった。そして、それが(私には)自然に思われるから、サティは高い音が聞こえにくい”耳が遠い”聴覚を持っていたのだろう」 …サティが精魂込めて作り出した音楽の特徴が、”耳が遠い”せいになってしまいました。

 そう、「ゴッホの本当のすごさを知った日」がマズイのは、典型的な間違った論証であることだけではありません。 奥底においてマズイのは、「一見、創作者であるゴッホが感じたことを”疑似追体験”させるかのように見えるけれども、それは”創作者ではなく自分の主観”にもとづくものであって、実は”(他者である)創作者が行った作業(あるいは、その時代背景)を想像し・追体験する”ということを放棄していること」です。

 典型的な間違った論証で、少し「うまくない」ことが書かれていたので、ここまでの雑文を書きました。

 さて、ゴッホの色彩について、別のことを書きましょう。 書くのは「背景知識」「ゴッホの作風変化」「ゴッホがどのように色を感じていたか」という3点です。

 ゴッホは、オランダで画商をしていた叔父のもとで働いた後、1986年、パリで画商をしていた弟テオのところに行きます。 ゴッホは、テオを通じてドガやスーラ、ロートレックやピサロ…といった印象派の巨匠たちと知り合います。 すべての時代の画家たちが色材・画像科学の先端技術者であったのと同じように、印象派の画家たちは当時最先端の色彩科学を自分たちの技術に反映させていました。 ゴッホは、そうした技術を先人である巨匠たちから学んだ上で、さらに流行最先端の日本の浮世絵の研究も行い、同時代の画家の中でも、屈指のロジカルな色彩考察をし始めます。 そして、ゴッホの作風は、パリに来るまでとは大きく変わります。 これから亡くなるまでの2年の間に描かれたのが、いわゆる「ゴッホの名画」とされているものです。

 たとえば、下の2枚の絵は「作風が変わる前後の時期に、同じ場所でゴッホが描いた絵画」です。 左が1887年に描いたもので、右が1890年に描いた風景です。 ここでわかることのひとつは、「ゴッホの色使い」は生まれた時からの色覚特性によるものではない、ということです。 ゴッホのレゾネでも眺めれば、そうしたことを一目瞭然に見て取ることができます。

 

 「人が色をどう感じているか」ということは、容易には知り得ないことです。 しかし、ゴッホの場合には、それででもいくつかの「手がかり」があります。 それは、友人ベルナールや弟テオに書いたたくさんの手紙です。 そこには、「どのように色を感じているか」「どのように色を考えているか」「描き方の理由・狙い」といったことも数多く書かれています。

 たとえば、テオ宛の手紙中では「赤色・黄色・青色を基本色として、それらの混合で補色を作り出し、さらには白と黒を混ぜることを経て、無限の色を使ることができる」 「補色を並べることで、それらは彩度を強め合う。さらには、補色の混合と対立・類似したトーンの揺れを描きたい」といった感覚・理論を書き連ねています。 そして、そういった理論にしたがって、赤/緑(黄+青)や黄/紫(赤+青)あるいは青/オレンジ(黄+赤)といった補色同士を並べたストロークを駆使したのです。 赤/緑、黄/紫、青/オレンジといった組み合わせをゴッホが多く用いるのは、こうした理由によるものです。

 黒と白は色彩と考えることができるし、二つを並置した対照は例えば緑と赤の対照と同じように刺激的だからだ。 それに日本人だってこれらを使っている。

「ベルナールへの手紙」

 ここまでで十分長くなってしまいました。 ゴッホのパレット(画家がどういった色を使うか)例やその並び、あるいは、その絵具に生じる化学反応や…といった興味深いことについても書きたかったのですが、それはまた今度書くことにしましょう。

 それにしても、「新しいことを知る」ということは、とても楽しいものだ、と思います。 歴史上の創作者たちが行った作業、あるいは、そこに至るまでの時代背景を想像し・追いかける、そして追体験してみる…といったことは(安易な感じ方をもとに)放棄するには実にもったいない・貴重でワクワクさせられる感覚だと思います。

 わしが見てるコレって本物? わしが聞いたコレって本当? わしらはいつもそういったギモンを胸に抱き、できれば見る、何回も見る、そして聞く、何回も聞く、そして自分にいま一度問うてみる、そんな姿勢とミミ掃除が肝要だと思うのである。

「わしが見てるコレって本物?」ちゃろん日記(仮)


 参考:続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」

 この『さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか、ということを考える』という点について、今回はもう少し詳しく書いてみることにします。
 そういったことを考えながら、「ゴッホの本当のすごさを知った日」という記事を読んでいくと、あの記事が「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを考えないまま、思いを巡らせないまま、そして、整理しないままに書かれたのだろう、と感じてしまうのです。

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2011-12-13[n年前へ]

続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」 

 一月と少し前、『「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」』という雑文を書きました。 それは、「asada's memorandum (ゴッホの本当のすごさを知った日)」という記事に対し、「間違っている点」と「興味深い歴史的な情報」を書いてみたものです。

 「ゴッホの本当のすごさを知った日」に書かれている内容は、要約すると、およそ次のようになります。

  • ①ゴッホは色覚が異常だったのではないかと言われているそうだ。
  • ②P型色覚と「普通の」色覚の中間的なものを”疑似体験”させるような色変換をゴッホのRGB画像に掛けてみた。
  • ③色変換された画像は”自然で素晴らしく見えた”から、ゴッホはP型かD型の色覚特性を持っていたのだろう。
こういった論旨の、②(③も関連します)に関して、前回記事でこんなことを書きました。
 色覚”疑似体験”ツールというのは、原理上、ある色が「どの色」に変換されるかということには、あまり意味がありません。あくまで、どういった色群が「見分けにくい色」となってしまうかを疑似体験するものに過ぎません。それらの「見分けにくい色」を、実際のところ「どういう色」として感じているかまでを追体験できるものではないのです。ましてや、その色覚”疑似体験”ツールにより変換出力された色調をもって、絵画の色表現や階調表現を論じる・感じることができるようなものではありません。ここにある「使い方への間違い」は、「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを整理しないままに作業を行ってしまったのではないか、と思います。
この『さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか、ということを考える』という点について、今回はもう少し詳しく書いてみることにします。

 下の図は、人が景色を眺め・その景色を描こうとする際に、人がどのように色を感じ・色を描くかを(簡易的に)示したものです。「目の前の景色から発せられた(さまざまな波長毎に異なる強さを持つ)光」は、眼の中にたくさん存在する(色を感じる)3種の錐体に刺激を与え、そして3種の(しかしたくさん存在する)錐体からの刺激は複合的に組み合わさった上で「明暗チャンネル」「緑ー赤チャンネル」「黄ー青チャンネル」の3つとなって、脳の中へと送り込まれた上で、大脳中枢でその情報が処理されていきます。その(眼から脳までの)人体内の色処理の繋がりを限りなく大雑把に示したものが、下図の右に描いた「処理システム」です。

 ここで注目すべきことは、眼の中にあるたくさんの錐体に辿り着いた「光」は、それが「さまざまな波長毎に異なる強さを持っている=多くの情報を持っている」にも関わらず、わずか3つの色情報へと変換されてしまう、ということです。それはつまり、本来は違うスペクトル(各波長に対する光強度)を持つ「光」を、人は同じ「色」として認識してしまう、ということです。 だから、たとえば、左下に貼り付けたようスペクトルを持つ光と、右下に貼り付けたような光を(多くの)人が眺めたならば、それら2つの光が「違う光波長分布」の「大きく異なる光」であるにも関わらず、それらを同じような・区別することができない「色」として感じてしまいます。

 

 あるいは、こうした「処理システム」、つまり私たちの頭の中での色は「明暗チャンネル」「(”緑っぽいか赤っぽいか”を示す)緑ー赤チャンネル」「(”黄っぽいか青っぽいか”を示す)黄ー青チャンネル」というった3チャンネルのみで処理されるがゆえに、私たちが「赤色と緑色」あるいは「黄色と青色」といった「補色」を同時に感じることができないという現象が生じることも自然と理解できる、というわけです。

 この(眼の中にある)錐体の光波長感度分布などは、人それぞれの個性・違いがあります。だから、「どのような光を同じ色と感じてしまうか」は異なります。あるいは、さまざまな異なる光を「どのような(どのように)違う色」として見分けるか、ということも異なります。

 そういった違いから生じる「(他の人の)違う色として区別しにくさ」を(ほんの少しだけ)理解することを目的として作られている道具の一つが、色覚”疑似体験”ツールです。それらのツールが行う処理がどのようなものかというと、(疑似体験したい錐体光波長感度分布下で)任意の光がどのような「明暗チャンネル」「緑ー赤チャンネル」「黄ー青チャンネル」を生じさせるかを計算し、その計算結果と同じ3刺激を与えるような光を表示させることで、(疑似体験したい錐体光波長分布などを持つ他の人にとっての)「違う色として区別しにくさ」を理解しようとするものです。

 …ただし、それらのツールにより変換出力された結果(色調など)は、「絵画の色表現や階調表現を論じる・感じる」ことができるようなものではありません。(ちなみに、RGB値から計算を行うような簡易ツールの場合、そのツールが行う処理は一種の単なる色域圧縮のようなものになります)

 たとえば、人が景色を眺め・その景色を絵の具を使って描こうとする時、その景色を見て感じる色も・その景色を描くために選ぶ絵の具も、選ばれた絵の具で描かれた絵も、すべて「それぞれ個人ごとに大なり小なりに異なる(人それぞれの)色処理」がかかります。だから、もしも色を忠実に再現しようとする画家=見た景色と同じ”色”に感じる絵の具をただ選び出すような画家が”もしも・仮に・百歩譲って”いたとしたならば、描かれた絵が派手であれば・その画家は景色をも派手に感じていたことになる…というわけです。

 そして、この「派手」とか(あるいはその逆の)「自然で滑らか」とかそういった感覚を育み・作り出すもの=毎日眺める景色・生活のすべてにも、そんな「処理」が掛けられているわけです。つまり…色変換処理を掛けた画像から、”自然”とか”良い”といったことを考えることができるほどには、単純な話ではないのです。画家本人の「色としての感じ方」を考えるのであれば、景色や絵具やキャンバス上の絵といったすべてに処理を掛け・考えなければいけないし、絵を見る側の「色としての感じ方」を想像しようとするならば、絵だけでなく・普段眺めるものすべてに変換処理を掛けた上で、想像しなければならないわけです。

 そういったことを考えながら、「ゴッホの本当のすごさを知った日」という記事を読んでいくと、あの記事が「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを考えないまま、思いを巡らせないまま、そして、整理しないままに書かれたのだろう、と感じてしまうのです。

続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」








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