hirax.net::Keywords::「色彩」のブログ



2009-04-01[n年前へ]

アメコミの色彩と「技術品質」と「コスト」 

 「マンガ学―マンガによるマンガのためのマンガ理論 」を読んでいると、アメリカの新聞に連載されていたカラー・マンガでは、シアン・マジェンタ・イエローの3色の濃さを100,50,20パーセントの3種類に限り、輪郭線には黒線を入れていたという。新聞紙への印刷が不安定で、出力品質が決して良い状態ではなくても、色の識別がしやすいように、使う色種(インク量)を少なく限ったという。低コスト・低技術品質の中で、「わかりやすさ」を実現しようとしたわけである。

 その結果として、アメコミの「派手な原色」「力強い輪郭線」と数少ない色種の組み合わせによる「識別の記号としての配色」という特徴が生まれたという。確かに、「ハルクの配色」「スパイダーマンの配色」・・・どの配色も似たような色が使われているはずなのに、「どのマンガ・どのヒーロー・どの悪役」であるかが、その配色を見れば不思議なほどにすぐわかる。

 「技術品質」と「コスト」のバランスから生まれた文化、というのは意外に多いのではないだろうか。たとえば、吉野家の牛丼はだってそうだ。安い肉を大量に供給するために、吉野家の牛丼のあの調理法・味が生まれている。もしかしたら、「大量に売れる文化」というものは、ほとんどすべてが「技術品質」と「コスト」のバランスの上で立っているのかもしれない。





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2011-12-13[n年前へ]

続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」 

 一月と少し前、『「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」』という雑文を書きました。 それは、「asada's memorandum (ゴッホの本当のすごさを知った日)」という記事に対し、「間違っている点」と「興味深い歴史的な情報」を書いてみたものです。

 「ゴッホの本当のすごさを知った日」に書かれている内容は、要約すると、およそ次のようになります。

  • ①ゴッホは色覚が異常だったのではないかと言われているそうだ。
  • ②P型色覚と「普通の」色覚の中間的なものを”疑似体験”させるような色変換をゴッホのRGB画像に掛けてみた。
  • ③色変換された画像は”自然で素晴らしく見えた”から、ゴッホはP型かD型の色覚特性を持っていたのだろう。
こういった論旨の、②(③も関連します)に関して、前回記事でこんなことを書きました。
 色覚”疑似体験”ツールというのは、原理上、ある色が「どの色」に変換されるかということには、あまり意味がありません。あくまで、どういった色群が「見分けにくい色」となってしまうかを疑似体験するものに過ぎません。それらの「見分けにくい色」を、実際のところ「どういう色」として感じているかまでを追体験できるものではないのです。ましてや、その色覚”疑似体験”ツールにより変換出力された色調をもって、絵画の色表現や階調表現を論じる・感じることができるようなものではありません。ここにある「使い方への間違い」は、「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを整理しないままに作業を行ってしまったのではないか、と思います。
この『さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか、ということを考える』という点について、今回はもう少し詳しく書いてみることにします。

 下の図は、人が景色を眺め・その景色を描こうとする際に、人がどのように色を感じ・色を描くかを(簡易的に)示したものです。「目の前の景色から発せられた(さまざまな波長毎に異なる強さを持つ)光」は、眼の中にたくさん存在する(色を感じる)3種の錐体に刺激を与え、そして3種の(しかしたくさん存在する)錐体からの刺激は複合的に組み合わさった上で「明暗チャンネル」「緑ー赤チャンネル」「黄ー青チャンネル」の3つとなって、脳の中へと送り込まれた上で、大脳中枢でその情報が処理されていきます。その(眼から脳までの)人体内の色処理の繋がりを限りなく大雑把に示したものが、下図の右に描いた「処理システム」です。

 ここで注目すべきことは、眼の中にあるたくさんの錐体に辿り着いた「光」は、それが「さまざまな波長毎に異なる強さを持っている=多くの情報を持っている」にも関わらず、わずか3つの色情報へと変換されてしまう、ということです。それはつまり、本来は違うスペクトル(各波長に対する光強度)を持つ「光」を、人は同じ「色」として認識してしまう、ということです。 だから、たとえば、左下に貼り付けたようスペクトルを持つ光と、右下に貼り付けたような光を(多くの)人が眺めたならば、それら2つの光が「違う光波長分布」の「大きく異なる光」であるにも関わらず、それらを同じような・区別することができない「色」として感じてしまいます。

 

 あるいは、こうした「処理システム」、つまり私たちの頭の中での色は「明暗チャンネル」「(”緑っぽいか赤っぽいか”を示す)緑ー赤チャンネル」「(”黄っぽいか青っぽいか”を示す)黄ー青チャンネル」というった3チャンネルのみで処理されるがゆえに、私たちが「赤色と緑色」あるいは「黄色と青色」といった「補色」を同時に感じることができないという現象が生じることも自然と理解できる、というわけです。

 この(眼の中にある)錐体の光波長感度分布などは、人それぞれの個性・違いがあります。だから、「どのような光を同じ色と感じてしまうか」は異なります。あるいは、さまざまな異なる光を「どのような(どのように)違う色」として見分けるか、ということも異なります。

 そういった違いから生じる「(他の人の)違う色として区別しにくさ」を(ほんの少しだけ)理解することを目的として作られている道具の一つが、色覚”疑似体験”ツールです。それらのツールが行う処理がどのようなものかというと、(疑似体験したい錐体光波長感度分布下で)任意の光がどのような「明暗チャンネル」「緑ー赤チャンネル」「黄ー青チャンネル」を生じさせるかを計算し、その計算結果と同じ3刺激を与えるような光を表示させることで、(疑似体験したい錐体光波長分布などを持つ他の人にとっての)「違う色として区別しにくさ」を理解しようとするものです。

 …ただし、それらのツールにより変換出力された結果(色調など)は、「絵画の色表現や階調表現を論じる・感じる」ことができるようなものではありません。(ちなみに、RGB値から計算を行うような簡易ツールの場合、そのツールが行う処理は一種の単なる色域圧縮のようなものになります)

 たとえば、人が景色を眺め・その景色を絵の具を使って描こうとする時、その景色を見て感じる色も・その景色を描くために選ぶ絵の具も、選ばれた絵の具で描かれた絵も、すべて「それぞれ個人ごとに大なり小なりに異なる(人それぞれの)色処理」がかかります。だから、もしも色を忠実に再現しようとする画家=見た景色と同じ”色”に感じる絵の具をただ選び出すような画家が”もしも・仮に・百歩譲って”いたとしたならば、描かれた絵が派手であれば・その画家は景色をも派手に感じていたことになる…というわけです。

 そして、この「派手」とか(あるいはその逆の)「自然で滑らか」とかそういった感覚を育み・作り出すもの=毎日眺める景色・生活のすべてにも、そんな「処理」が掛けられているわけです。つまり…色変換処理を掛けた画像から、”自然”とか”良い”といったことを考えることができるほどには、単純な話ではないのです。画家本人の「色としての感じ方」を考えるのであれば、景色や絵具やキャンバス上の絵といったすべてに処理を掛け・考えなければいけないし、絵を見る側の「色としての感じ方」を想像しようとするならば、絵だけでなく・普段眺めるものすべてに変換処理を掛けた上で、想像しなければならないわけです。

 そういったことを考えながら、「ゴッホの本当のすごさを知った日」という記事を読んでいくと、あの記事が「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを考えないまま、思いを巡らせないまま、そして、整理しないままに書かれたのだろう、と感じてしまうのです。

続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」






2012-01-19[n年前へ]

ゲーテが「囲碁の碁石の大きさ」を予言していた? 

  「学生の可能性を可能にするポータルサイト ワンダーノーツ(Wonder Notes)」に「ゲーテが「囲碁の碁石の大きさ」を予言していた?」を書きました。

 囲碁で使われる碁石、白石と黒石の大きさは、同じではありません。実は違うサイズなのです。…なぜ、囲碁で使われる碁石は、白石より黒石の方が大きいのでしょうか?

 ちなみに、ゲーテがの「色彩論」は、描かれた「イラスト」の美しさに驚きます。イラストレータとしても、ゲーテは超一流だったのです。



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