2010-11-15[n年前へ]
■アニメ・マンガの「めがねっこ」は実はみんな伊達メガネ
めがねっこが大好きです。だから、こんな感じの文章を「めがねっこ大好き。」と称して書いたことがあります。
たとえば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。プレハブ住宅を支えるのが壁であるように、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、力強くそそり立つ鉄筋コンクリートのごとく、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型を守り抜く心を持つのである。
だから、たとえば、理系は女子高生の制服が大好きなのである。ありとあゆる個性を持つ女子高生たちをセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができる、それが理系なのである。
「このアイドルがなんとなく好き」という素直で曖昧模糊とした衝動で動くのが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志を形にしたもの、それすなわち理系なのである。
そんな気持ち「めがねっこ大好き。」な気持ちを、ずっと変わらなく持ち続けています。・・・その一方で、アニメ・マンガの「めがねっこ」を見るたびに、何だかとても納得できない気持ちになるのです。なぜかというと、それはアニメ・マンガの「めがねっこ」は実はみんな伊達メガネにしか見えないからです。アニメ・マンガに描かれているメガネは、どれも光を曲げるという機能を持たない・・・つまり、まったく眼鏡の機能をなしていない伊達メガネに見えるのです。
たとえば、ドラえもんの「のび太」さんを見てみましょう。・・・しまった、「のび太」のメガネは「メガネは顔の一部です」状態で、伊達メガネうんぬん以前の問題です。それなら、スラムダンクの小暮さんならどうでしょう。・・・ほら、小暮さんの眼鏡の無効に見える顔の輪郭も、目の輪郭も、眼鏡を通す・通さないに関わらず、少しも変わらず同じように見えています。そう、スラムダンクの小暮さんは、伊達めがねくんなのです。そして、他のアニメ・マンガ・キャラたちを眺めてみても、みなが「光が少しも曲がることがないメガネ」をかけているのです。これは、「骨から組み立てていく」理系的には、少し難があるのです。それでは、本当に「メガネ」ではなくて、ただの伊達眼鏡にしか思えないのです。
「これはすごい!」と感心するぐらい忠実なメガネを描いたアニメ・マンガの「めがねっこ」があれば、とてもハマりそうな気がします。「そうか、この主人公は右目のディオプトリーがマイナス2.5Dで、左目はマイナス2.75Dで少し乱視が入っていて、そのお母さんはちょっと老眼気味のプラス2.5Dの可愛い眼鏡の奥にどんぐりまなこの目が隠れている・・・という具合に、見事なくらいに律儀に設定された「めがねっこ」たちを眺めることができたら、たぶんものすごく魅力的に感じるに違いない、と妄想が炸裂する今日この頃です。
2012-04-12[n年前へ]
■「遠視の人は老眼になりやすい?」の謎を解け!
「眼の(ピントの)調整範囲」は、年齢が同じであれば、たいてい同じくらいです。ただ、そこには「オフセット」があります。つまり、近い側にピントが合うという人と、遠い側にピントが合う、というオフセットです。前者は近視と呼ばれ、後者は遠視と呼ばれます。
近視や遠視の人は、メガネやコンタクトレンズをすることで、眼の(ピントの)調整範囲のオフセット(ズレ)を打ち消します。たとえば、ピントが合う領域が近い側にオフセットしている近視の人であれば、メガネをかけることで「裸眼時の眼のピント調整範囲(実線)」を「メガネをかけた状態のピント調整範囲(点線)」へと変え、(よく眺める距離領域や)無限遠が見えるようにするわけです。
「眼の(ピントの)調整範囲」は、オフセットはありますが、年齢が同じであればたいてい同じくらいであって、「年をとるにしたがい、眼の(ピントを合わせることができる)調整範囲が狭くなる」ことが「老眼」です。だから、「老眼」は遠視の人にも近視の人にもモレなくやってきます。
しかし、「老眼」というものを「(裸眼で)近くが見えなくなること」だと感じる人も多いのではないかと思います。そういった感じ方を前提にすると、近視の人はメガネをとれば「ピントが合う領域が近い側にオフセットしている」わけですから、年をとって老眼になったとして、メガネをとって裸眼にしてしまえば、比較的近い側を見ることができる、ということになります。(もちろん、メガネをとってしまうということは、無限遠や遠くは見ることができなくなります。それは遠視の人が老眼鏡をかけることと同じです)
「遠視の人は老眼になりやすい?」と言われたり、それと反するように「遠視であっても近視であっても、老眼にはなるんだ」と言われたりします。そこで感じる矛盾は、「老眼」の定義(その言葉をどう考えるか・受け止めるか)が少し互いにズレていることが原因です。
そんな「ズレ」も、上に挙げたようなグラフを眺めれば、自然に溶かし・納得できるように思います。
2012-08-22[n年前へ]
■自分で作る「セカイメガネ」
①視線方向を計測し ②視界映像も取り込んで ③外部センサデータも使いつつ ④外部モロモロを制御しよう!という(自分用)メガネを作り始めています。そんなものを作ろうと思ったきっかけは、今は慶応SFCにいる増井さんの言葉です。
昔は、近眼のニンゲンは生きていくことができなかった。「近眼」というものは、そういうものだった。 しかし、メガネという道具が作り出された今は、メガネが日常に溢れる普通のものになった今は、近眼というものを気にする人はいなくなった。近眼なんて「病気」は消えた。こんな言葉を聞いて、自分の目の不自由なことを補うメガネを作りたくなったのです。
右上に貼り付けた「自分用メガネ」…メガネ中央部にUSB経由でPCに動画をリアルタイム出力できるカメラが備え付けられていて、赤外光照射&視線方向を(赤外線で)計測するためのカメラ(これもUSB経由でPCに動画をリアルタイム出力可能なもの)も備え付けたので視線と視界を同時に計測できるカメラメガネです。
たとえば、右に貼り付けたのは『AKB 48 を観る(自分の)視線』です。そして、下に貼り付けたのは、メガネの中央部に埋め込まれた小型カメラ+ミニ魚眼レンズを使って取り込んでいる、リアルタイム撮影している「視界映像」です。どんなものを眺めていて、どんなものに顔を向け、そして(そんな風に眺めた景色中の)どの部分に目を向けたか(惹かれたか)を映し出し・計測してしまう・・・のです。
というわけで、「視界」と「視線」を同時に把握する、すなわち、どんなセカイを眺め・どんな一角に目を(そして心を)奪われるかを調べ上げる視界・視線の同時撮影カメラを作っています。自分の視界(世界)や視線を白昼のもとにさらしてしまうこの「セカイメガネ」…結構恐ろしい最終兵器かもしれません。
2012-11-08[n年前へ]
■「メガネのままの君が好き ~ 恋愛少女マンガの思想と構造」
「メガネのままの君が好き ~ 恋愛少女マンガの思想と構造(1)」
眼鏡をかけた少女のことを「眼鏡っ娘」という。ときどき「少女マンガでは眼鏡っ娘が眼鏡をはずすと美人になる」などと言われる。たとえば、中島梓はこう言っている。「「眼鏡をとったら君も美人」は少女マンガにとってはいまだに有効な呪文であります」。大ウソである。私は古今のマンガに描かれた眼鏡っ娘を1,041人調べたが、そのうち眼鏡を外して美人になるのは130人。率にすれば12.5%であり…「メガネのままの君が好き ~ 恋愛少女マンガの思想と構造(4) <おとな>と眼鏡」
つまり、眼鏡は容貌に問題があるという記号ではなく、当初は<おとな>の記号だった。そして、60年代には「子ども/おとな」という厳密な二項対立コードが成立しており、<おとな>の記号としての眼鏡は「脱-恋愛」的存在であることを意味していた。
しかし、1970年頃に<子ども>と<おとな>の境界線が消失し、<おとな>の権威が失墜する。そして<おとな>の失墜は、<おとな>のシンボルとしての眼鏡にとっては厳しい逆風となった。<おとな>になるという目的が存在した時代には、眼鏡は<おとな>のシンボルでもあったから権威を保ち得た。
眼鏡をかけた少女は権威ある<おとな>を想起させ、ステータスを保った。しかし、<おとな>という目的を喪失し、<恋愛>が自己目的化したとき、非-恋愛のシンボルとしての眼鏡は「<恋愛>からの脱落」を意味するシンボルへと容易にすり替わってしまった。そして、ついに眼鏡が負の記号となった。
現実的に眼鏡をかけている女性がブスだったから「眼鏡=ブス」というイメージができあがったのではない。<おとな>の消失に伴う価値観の転回により、「眼鏡=ブス」という図式が70年頃に成立したのである。
■女子 + メガネ = 勝利の方程式
海外の画像サイトで「Girls + Glasses = A Winning Combination」という記事を発見した。意訳すれば「女子+メガネ=勝利の方程式」ともいえよう。様々な人種のメガネっ娘写真が25枚掲載されている内容だ。