2006-03-20[n年前へ]
■「物語が作られる理由」と「虚無への供物」
今年1月までアレフ(旧 オウム真理教)の出家信者であったという松永英明氏が書かれたオウム・アレフ(アーレフ)の物語を、少しだけ読んだ。なぜ、「物語」と名付けつつ書くのだろうか、と不思議に思いつつ読んだ。なぜ、そんな風に不思議に感じたかというと、「物語」というのは結局のところ書き手のために書かれるものだ、という感覚が私にはあるからかもしれない。書き手自身、ないしは書き手と重なる何かを持つ人々に「物語」とが書かれて、そして届くことが多い、という単なる(あやふやな)経験則が私の心のどこかにあるからかもしれない。だから、「物語」と名付けられたこの文章が、誰に何のために書かれているかを、私は気にしてしまうのだろう。
この文章を少し読み、さらにまた他の方の感想を少し読んでいるとき、私はどうしても、中井英夫「虚無への供物」をさらっているような気分になってしまう。まるで、「虚無への供物」に登場する青少年たちの台詞を読み直しているような気分に襲われる。理不尽なできごとや物語の作り手や読み手や…、今回、あまりに似通った構図・言葉・文章をさらい直しているような気分になってしまうのは、一体なぜだろうか。
「物語」というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものであるかということを… 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」
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